アトランタ発第一便
2001年4月10日
おめでとうございます
三月三十一日の夕方六時に成田をたって、同じ日の午後四時にアトランタに到着致しました。
多くの方のお世話になり、
沢山の思い出を持って
大きな引っ越しの日を迎えました。
別れの切なさを感じつつも、見送りに来てくださった田中光三牧師に、旅の安全を祈っていただき、感謝にあふれて出発を致しました。
出発前の二十八日の朝、突然と言うべきか、当然と言うべきか分かりませんが、私の持病の腰痛が起きて、起きられない事態になったのですが、ここまで導いてきてくださった神様が必ず何とかしてくださるに違いないと、静かにしておりましたところ、隣りの内科の先生が注射をしに來てくださり、次の日には立ち上がれたではありませんか。長年の治療体験の中でも、初めてのことでした。
最後の二日を言葉で言い表せないほどの、感謝で過ごしました。
その上、妹たちが心配して機内持ち込みの荷物も持ってくれましたので、私は、手ぶらで成田へ向かいました。又、機内は混んでいたのですが、具合いが悪いということで希望した通路側の席を取ってもらえました。飛行時間は十一時間十七分でしたが、本当に静かな旅でした。二回ほどベルトを占めるようにサインが出ましたが、ほとんどの時間、動いているのも疑いたくなるような静かさでした。最近エコノミークラス症候群が話題になっているためか、機内で散歩しているような人が沢山見受けられました。
頼子と圭三さんに迎えられ、夕食を済ませて新しいわが家にたどり着きましたが、アトランタのこの日が終わるまでは、三十八時間という長い長い一日でした。
さて、翌日は日曜日でした。しかも、夏時間に変わるという日です。一時間損をする日だということですが私たちには全く影響力がありません。何しろ時差が一時間短くなるだけのことです。
礼拝には、案の定、音楽ディレクターが寝坊したらしく現れませんでした。
私たちが出席したのは、家から十分ほどのところにあるアメリカのバプテスト教会です。頼子がキーボードを受け持っているコンテンポラリーの礼拝に出ました。
礼拝後、一休みしてから早速、車を探しにつれていってもらい、二つの店を回りました。最初の店で、主人は試乗を勧められて、いきなりハイウェイを、と言うハプニングもありましたが楽しい一日でした。
月曜日、頼子と圭三さんが仕事に出たあと、このトリーハウスレーンという一キロほどの、輪になっている通りを歩いてみました。八重桜がまだ咲いています。チューリップもきれいです。大きな木にはまだ十分な葉はなくて、高いところに鳥の巣がいくつも見えます。鳥の声は一日中聞こえます。道路を横切るりすの動きはとてもかわいいです。
午後、主人は眠いと言って夕方まで寝てしまいました。急いで時差を取り戻す事もありませんので。
火曜日には、二月二十一日に送り出してあった荷物を日通さんが配達してきました。アトランタには日通の支店があります。その前の道には、ペリカン通りという名前がつけられています。大きな黒人さんと小柄な日本の若い人が、二人で五十七個の荷物を手際よく四十分で下ろしていきました。まあ、ボチボチやろうと思っていましたが、主人が動けたのはそこまででした。
一月頃から急に食が細くなり、疲れた様子が目立つようになりましたので、できるだけ無理をしないように気を配ってきました。自分でやりたいらしいことと、どうしても、主人でなければできないことだけをしてもらうように注意してきたのですが、ちょっと風邪をこじらせたのと、最後に行って私が倒れたため無理をすることになってしまいました。
おかしな咳きをしたりしていたのですが、その晩は喘息の発作のようにゼーゼーヒーヒーがひどくなり、ほとんど一晩中寝られませんでした。次の日には、妹の牧実と恒義さんが昼食を一緒にしようと來てくれたのですが、とても起きられず、私だけが一緒に出かけ、帰りに、喘息に関しては大先輩に当たる牧実に教えてもらって喘息用の吸入薬を買ってきました。それで少し胸がスーっとするようだと言い、前の晩よりは眠れたようでした。でも、朝になると、心臓かも知れないと言い出しました。
頼子が、当分の間、私たちのために毎週一日休みを取ってくれていましたので、次の日、四年半前まで自分が勤ていた日本クリニックへ連れていってくれました。名古屋大学病院にいらしたという中年の
紀平
(キヒラ
)先生です。
私と頼子にも話があるからと呼ばれていきますと、風邪だとか喘息だと思って油断してはいけません。心不全だと思ってください。左心室がこんなに肥大しているし、肺にも水があります。爪の色もひどく悪い。でも、末期と言うわけではありませんから、とにかく、利尿剤を使って水を抜きましょう。
調子が良ければ四日後に來てください。悪ければそうはいかないでしょうけど、とのこと。すぐに出された利尿剤を飲み、昼食を済ませて早々に帰宅しましたが、その日は夕方まで五分から十五分おきにトイレ通いで忙しかったそうです。
次の日には、昨日買ったベッドが届き、忠雄(こちらでの新しい名前はダディに決定)の休む態勢が出来上がりました。
水抜きの結果は著しく、息苦しさはすっかり取れて楽になりました。動くと肩で息をしていますが、少し食事も喉を通るようになりました。八日の日曜日は、イースター前のしゅろの聖日でした。私はちょっと腰の様子がおかしかったので動けなくなるとたいへんだと思い、礼拝を欠席しましたが、ダディは出席しました。
その日は三時から第一バプテスト教会で行われているパッションプレーの最終回がありました。前から切符を買って楽しみにしていたのですが、どうなることかと案じられていました。でも、状態も落ち着いたという事で、すばらしいキリストの御生涯を演じたプレーを、見ることができました。復活から昇天まではとても感動的でした。ハレルヤコーラスが始まると、みんな席を立ち、幕が下りても拍手が終わらないほどでした。
さて、月曜日、今度は恒義さんが病院へ連れていってくれました。真っ白だった肺のレントゲンはすっかり正常になり、効果のほどを見せてくれましたが、血圧が150ー44とか(前回は170ー58)で、その原因は心臓の弁が閉まりきらないのではないかと診断され、エコーを取る予約をして帰ってきました。
学校が始まるのは三十日です。これからどうなるのか祈りながら状況をみています。きっと、神様が最善の道を開いてくださると信じています。考えてみれば、良い環境で、ゆっくり治療に専念できることも幸せなことです。
みなさまの御愛とお祈りを感謝しています。ご祝福を祈りつつ。
郁子