アトランタ発第5便
2001.5.29
皆様の熱いお祈りを心から感謝しています。昨日、27日の午後無事退院いたしました。
五日で退院とは言われていましたが、一日延びたとはいえ実際に、家に帰って,今さらのように驚いています。
22日は、7時半までに、という事でしたので、6時半に家を出て病院に向かいました、
私たちは、何事もなく着いたのですが7時ごろ出かけられたシーソー牧師は事故渋滞に会って9時過ぎにお着きになり大変なことでした。そんな場合も予想されていたのでしょうか9時ごろまではただ、待合室におかれ、それから、準備の個室に入って着替えたりしたのですが、そこにシーソー牧師が大きなからだ(小錦に似ています)をゆすり、顔を真っ赤にして到着。壁に取り付けてあったゴムの手袋の箱を見つけるといきなり一つを取り出して風船のように膨らませ、親指を鼻にしてまゆと目、口を描いておどけたマスコットを作り、ダディにプレゼント。11時頃手術室に入るまで良い時間を過ごしました。その時、ダディが日本で牧師をしていたことがわかり、「どうして言わなかった」「聞かれなかったから」などと圭三さんと言い合っていましたが、今度日本の伝道のことも聴きたいし、説教もきかせてもらいたいから通訳をしろと言われ、「説教の通訳が出来るかな」と圭三さん、心配顔です。結局、手術室には11時頃入ることになりましたが、約束された様に、その前にお祈りをして送り出してくださいました。
手術が終わって、執刀されたマーフィー先生が待合室まで来て下さったのは午後の4時でした。何も問題なく終わったこと、牛の弁をつけたこと、もう一時間ぐらいでICUに来るから逢うことができること、などお話しがありました。豚の弁を着けた方のことばかり聞いて、てっきり豚だと思っていたので、ちょっと意外な気がしました。(豚の弁をつけた人が、田舎の方に旅行したとき、ぬかるみを見ると、ころがりたくなった、などと言う冗談を聞かされていましたが、「牛」になりましたから、今度はどんなことを言われるのでしょう。)待合室には、大勢の家族たちが、手術の終わるのを待っていました。私たちは11時から、その部屋に入りましたが、朝7時から、弁だけでなく5箇所のバイパス手術もしている、という方のご家族もおられました。
最初に会う時には、顔色が白かったり,からだが冷たかったりしても驚かないようにと注意があったのですが、ダディにはそんな様子はみられませんでした。ただ、血圧が安定していないのが、言葉の不安も重なって緊張している事も原因だと思われるので、できるだけ日本語で語りかけて欲しいと言われました。口に人工呼吸器がつけられて、苦しそうに見えましたが、血圧が安定したら外せるという事でした。最初の面会は十分くらいで、あとは、8時半に20分だけというのが決まりでしたが、そんなわけで、(看護婦さんに協力するかたちで)最初も時間を気にせずにいられました。そのあとも、忠信と私、頼子と圭三さんという具合に交互に入って語り掛けました。11時になったので、頼子たちは家に帰り、私と忠信は近くのホテルに泊まることにしましたが,その時には「オヤスミ」と口が動き、私たちも安心して帰りました。
翌朝、6時半に行ってみますと、もう呼吸器は外されており、ジュースを飲ませてもらっていました。自分で喉が渇いた、といって注文したようです。最初は一口だけ、次のときもっと飲もうとして、2口だけでストップされたそうです。聞いてみると、夜中に一度、いすに腰掛けさせられたとか。ICUの部屋は、中央にあるナースセンターを囲むように7つくらいあって、ドア−はありません。ダディのベッドはこの部屋の5人の中でも中央にあって、上半身を少し高くしてあるので、室内は勿論、ナースセンターまでまっすぐに見え、見晴らしが良い場所でした。すぐ横には回診の先生方の机があって、先生たちが2,3人書き物をしたり、くつろいだりしておられました。5人の患者の主治医はみな違いますし、ここでは、看護婦さんもつききりで見ているようでしたから、そうだったのかもしれません。8時半に行った時には小さな声でしたが、話しができました。午後には、病室に移るとは言われていましたが、「10時半に移ります」との事で、私たちはホテルのチェックアウトを済ませ、急いで戻りましたが、もう上の階の病室に入っていました。ICUから車椅子で移動したそうです。
ここも、8角形の建物を生かして、ナースセンター(一回り60歩)を囲んで22の個室がありました。同じようなのが西と東にあり、間には、大きな家族用の休養室があって、そこでは仮眠することもできるように、枕や毛布、シーツやタオルなどいくらでも使えるようになっていました。病室はあまり大きくないので、付き添いベッドは一つしか置けませんでしたから、私たちも交互に一人はこの部屋で泊まりました。
病室に移ったので、時間も自由になったため、一度家に帰って2時ころ戻ってみますと、お昼にハンバーグの食事が出たと聞いてびっくりしました。まったくの普通食です。お水も大きなストローつきのカップで置いていかれました。さすがに、マッシュポテトとデザートのチョコレートプリンだけ食べたそうですが、翌日の食事からは、いろいろメニューを選択して注文しなければなりませんでした。鼻に酸素の細い管を入れていましたが、声もはっきり出るようになって、夕方、頼子と圭三さんが夕食を持って来たときにはテレビでスポーツを観戦しながら、よくおしゃべりをしました。食事も、病院食のスパゲッティをよく食べました。
傷は、喉の下から20センチほどですが、その5センチ下に、内部に血液などがたまらないように出す管があり、その両側5センチほどのところには、万一心臓のリズムが狂ったときに臨時にペースメーカーをつけるワイヤーが出してありました。
ここで使っている寝巻きは割烹着のように前から袖を通し、後ろで合わせるものですが、胸にポケットがついています。何を入れるのかと思っていましたら、心電図のモニターを入れるところでした。無線でナースセンターにズラット並んだコンピューターにつながりチェックされます。運動で周りを歩く時には、担当の看護婦が画面を見てチェックすることになっています。体温と血圧を測る人、血液中の酸素を測る人、検査のために血液をとる人、薬を飲ませに来る人、気管支拡張剤を吸入させる人、ガーゼを取り替える人、点滴の針をさす人、点滴をする人、みんな違う人で、それが、時間で交代するのですから同じ顔を見たのは数人だけでした。誰もが、入院前からつけさせられているリストバンドと与えられた指示書を確認し、何の為に何をするかを説明して、テキパキと仕事していきます。病室に移ってすぐに、「英語の必要な事態」に気づき、前から声を掛けていただいていたヨシコさんに二回,牧実に一回、忠信が帰って、私だけになる数時間を助けてもらいました。普通に付いているだけなら、私だけで大丈夫だと思っていたのですが、病院で使われるのは「普通」の言葉だけではありませんでした。先生の細かい説明を聞き、薬が出ればその説明があり、症状や気分を尋ねられ、いろいろな指示が出るという具合です。一番おかしかったのは、部屋にトイレとシャワーがついていますが、尿は、量を調べるためにフタとメモリのついた尿瓶にとって置いておきますと、時々チェックに来るのです。夕方に来た時は、便通があったかと聞くのです。どうにも聞き取れないその英語を覚えなければと思いヨシコさんにたずねました。ところが、アメリカ生活40年のヨシコさんも、聞くことはできるけど教えるような発音はできないと言われます。とても難しい発音だそうでひとしきり笑いながら対策を考えたことでした。それにしても、日本語の「お通じ」とはきれいな表現ですね。
血圧は、二日目からはほとんど問題なく安定しましたが、血液中の酸素の量(これは、たびたび計りました)が、92%を超えれば、酸素の管は外しても良いそうです。病室での二日目の朝、はじめてナースセンターの周りを歩く前に、92%になりましたので、酸素ボンベを引っ張って歩かないですみました。それと、体温ですが、摂氏でなく華氏なのでピンときません。37度は98.6度。100度は、37度8分になります。帰宅してからも、101度が24時間続いたらドクターに連絡するように言われています。病院では、99.5くらいが続いていましたので、熱さましの薬が出ていましたが、この熱は、体を動かしたり、深呼吸を繰り返したりして、咳がでれば(たんが取れて)下がってくると言われます。「もっと動け、動け」と言われました。もう一つ、傷口の一部からの出血がちょっと残りましたので、土曜日の退院は見送られたようですが、日曜日午前の回診で、体内に残っていた管とワイヤーが、一気に引き抜かれ、午後からの退院が許可されました。その後1時間の安静が命じられ、10〜15分おきに血圧が測られたそうです。
私たちは、完全にすっきりしてから退院の方が安心だったのですが、帰ってからの説明は、前の日にパンフレットをもらい、勉強会もありましたし、最後に、看護婦さんから注意事項の書類と、家でのむための薬の処方箋、3週間後の診察の予約メモをもらい、許可が出てから数時間で帰ってきました。やはり、帰ってみると、気分も落ち着き、食欲も出てきて調子が良いようです。28日からは、忠信がまた来てくれています。頼子はお昼に帰ってきて一緒に食事をしてから会社に戻っています。二人が高校を卒業して家を出る前の状態になっているわけです。それにしても、子供たちが、本当に良くやってくれて、嬉しく思っています。リンや圭三さんの協力があっての事ですが、改めて「お育て下さった神様」に感謝しながら、成長した子供たちと、大人同士としての交わりを楽しんでいます。
家には、前に受けたカテーテルの検査の請求書が届いていました。6900ドルちょっとですが、これも、全部一括して払うと一割引きになるそうです。日本と比べてどのくらい高いのか分かりません。多分、医療関係者の技術料の評価の違いだと思います。
今回の手紙は、病院報告だけになりました。傷は、外側の回復に6週間,中の回復(骨も切ったわけで)には12週間かかるそうです。外科医のやることは何もありません。よく言われるように、「医者は傷を縫い、神これを癒したもう」です。
忠信が学校の方に話に行ってくれましたが10月から行けるようになりそうです。与えられたこの時間を活かすことが出来ればと思います。日本はもう梅雨ですね。
愛川の家の庭にあったアジサイの美しい色を思い出しています。こちらにもアジサイはあるのですが、頼子の言葉によれば、カンカン照りの下でのアジサイは哀れに見えるそうです。やはり、雨が似合うのでしょう。こちらでは、庭の芝生がやっと延び始め、トマトの蒼いのを取ってスライスし(7ミリくらい)グリーントマトのフライ(南部の有名な料理)を楽しんでいます。結構美味しいです。神様のご祝福を祈っています。(30日)
郁子