アトランタ発 第6便
2001・6・13
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇23;6
今日は、ダディの誕生日です。神様の恵みによって、73歳をむかえることができました。 昨日で、手術後三週間になりました。6月3日のペンテコステの礼拝から外出をはじめました。礼拝をお休みしたのは、一回だけという事です。お祈りしていて下さったみんなが、歓声をあげて迎えてくださいました。
昔、ペンテコステの日に、上からの力で強められて新しい出発をした弟子たちのように、ダディの新しい弁での生活が始まりました。呼吸がこんなに楽なものか、というのが実感だそうです。
お天気が良い日には、家の前の道を午前、午後、歩いています。このところ、雨も、多いので、そんなときは二台の車が出払っているガレージの中を歩いているのですが、そこで10分歩くのは大変です。目がまわらないように歩き方や手の振り方など、いろいろ工夫しています。頼子に時間がある時には、いろいろなお店に連れて行ってくれますので、その中を歩き回っていますが、スタスタと元気に歩いています。本当に、日に日に、力がつく様で感謝です。今のところ、声がまだ十分に戻って来ていません(手術中人工呼吸器を挿入していたため)が、これも、しばらくの間だけのことだそうです。体重は十キロほど痩せたそうです。今日は、いろんな方からコンピューターでのバースデーカードも届き、楽しんでいました。圭三さんと頼子からは、はじめての短パンを贈られましたので、いよいよ、アメリカ風のダディが誕生する日も近いと思われます。そう言えば、この前、手術の前日、忠信が来ている時に、一週間早かったのですが、近くのイタリア料理のお店で忠信の誕生祝をしました。天井の高いお部屋で、間接照明で光を絞っているので、薄暗く感じました。食堂のセンターのあたりには大きな壷に、ただのグリーンの棒が三十本くらいいけてありました。どう見ても花は付いていないのです。イタリアの人はああいう線だけを美しいと感じるのかしらと異文化の国をあれこれ思ったのですが、帰りに確かめて見ましたら、やはり、グラジオラスの硬い硬いつぼみがついているものでした。ウェイターたちは、腰に白くて長い前掛けをかけ、タオルくらいの大きな赤いナプキンを肩にかけていました。水を持ってきたウェイターがいきなりテーブルの真ん中にお皿を置いて、それに油を入れましたので、ローソクの代わりに灯心でも灯すのかと、見ていると60センチもある様なチャッカマンらしき物をその油に向けてまわし始めました。私は芯と火が一緒に飛び出すのかしらと、興味津々の目で眺めていたのですが、何とそれは大きなコショウ引きだったのです。油はバージンオイルで後から持ってきた、いわゆる「つきだし」のパンを浸して食べるためだったのです。そのあと、お料理のパスタが来てからも同じようなバズーカみたいなものを持ってきてチーズをかけてくれました。食事が終わって、内緒にしていたバースデーケーキが運ばれてくると、その店のウェイターの一人なのですが、忠信を立たせ、赤いナプキンを渡して、それを頭の上でまわすようにと言うのです。そして、突然カンツォーネ風の歌をうたいだしました。それは、ほとんど終り頃になって、あの、ハッピーバースデーであることが分かったくらい変わっていました。とにかく、とても楽しい思いをしましたが、その日のことで、私の「発想」は相当変わっている、と以後からかわれる材料にもなりました。
9日の土曜日、ダディも落ち着いたので、私の診察を予約し、これで、一段落と思ったのですが、今度は、私の方の番というのでしょうか、一問題ありました。
日本からの病歴紹介状をもって行ったのですが、簡単な診察をした後で、「これだけの症状が表れている場合、絶対に心臓のくわしい検査をするべきです、多分プレッシャー何とか(忘れました)の検査を受けて、続いて、この前ご主人が受けたカテーテルの検査という事になるでしょう、このまま検査もしないでいたのでは、いつ死ぬかわかりませんよ、」と言われました。若い時から、心臓の具合が良くないことは自覚していましたけど、66歳まで、何とか生きて来られた訳ですから、単に弱いだけと考えられませんか、と申し上げてみましたが、アメリカでは心臓に関してはうるさいく言うので、これだけいろいろなところに症状が出ている場合、どこの病院へ行っても、同じように検査を薦められるでしょう、との事。その日は、取り敢えず、日本で出していただいていた薬と同じ効能がある薬を一か月分処方していただいて帰りました。
しばらく考えようと思っていましたが、二日後には、血液検査の結果が出て、少し数値の高いものもあるので土曜日に来てくださいと電話がありました。
ダディの場合とは違って、私の場合、若い時から心臓を含むこれらの病気を抱えて来ています。でも、どういうわけか、具合の悪い時もあるのですが、少し休むか、加減をしていると元気を回復し、活動的に動くことが出来ましたので、周りの方には、元気印の塊のように思われていたと思います。時には、それを辛いと思ったこともありますが、それでも、生きている限り、元気に動ければとてもしあわせなことですから喜んでおりました。
こちらに来てからも,体調はよく、変わったことはありません。しかも、今はもう、子育ては勿論、何の責任もなく、いたってのんびりした生活ができるのです。私としては、今までと同じ程度の薬がいただければよいと思うのですが、先生のお勧めを断った場合、こちらでの治療が出来るかどうかが、問題でした。
土曜日には、ダディは手術後初めて病気を見つけてくださった先生にご挨拶と元気な様子を見ていただくためと、頼子と共に話し合いに入ってもらうことにして出掛けました。
はじめに、私の考えとして、この先、大きい検査も手術も受けないで、神様が与えてくださる間だけ生きたいと思っている事、ただ、苦しかったり、痛かったりの場合には治療を受けたいと思っている事を話しました。すると、先生は、私の希望を気持ちよく受け入れて下さいました。「アメリカでは、本人の意思を第一に、大切にします、そういう希望を申し出る人もたくさんいます。検査だけでなく延命のための一切の医療を断ることもできます。はっきりとそう言ってもらう方が、これからの治療がしやすいのですよ、」とおっしゃって、どういう書類を書いておけば良いのかまで教えて下さいました。ただ、今までと同じように、胸のレントゲン、心電図検査、血液検査程度は、コントロールしていくために受けて欲しいとの事で,安心して帰ってきました。
今までも、人間、何時死ぬかわからないことは十分承知でしたし、自分の健康が外見と違っているようなので、ひそかに、その思いは強く持って生きてきましたが、もう一度改めて、毎日を、神様に生かされている日として大切に生きるべく、決心させられたことでした。妹たちには、心配もかけましたが、私の体調は日本にいたときと変わりないわけですので、ご安心ください。
皆さん、信じられないかも知れませんが、四月二十日に出した車が、六月十三日の今日現在、まだ修理から帰ってきていないのです。途中で何回も電話をかけたりしていますが、いろいろな部品の調達に時間がかかっているのだそうです。こちらの人に話すと、こんな事も珍しくないとのこと。でも、おかげで、右側通行の感覚にも慣れてきましたし、感覚だけでなく、右折はほとんどの交差点で、信号が赤でも左から車が来なければ出てよいこと、左折には中央にあるどちらからも入ってよい、ただ曲がりたい人だけが入れる黄色い線で挟まれたレーンの中に、取り敢えず入ることなどの決まりも飲み込めてきました。それと、事故の恐怖心が薄れ、「みんなが私に向かってくるような」気持ちがなくなり、「みんな、ぶつかりたくないと、思っているのだ」と感じるようになってきました。引っ込み思案の私にとって、自分を強くする心の状態はとても大事だと思っています。これを、無理に抑えて行動すると、とてもストレスが強くなるような気がします。長い修理の時間も、心の癒される時間だったと思えば感謝です。今は、運転できる日を楽しみに待っています。少し、車に慣れたら、ジョージアの運転免許試験を受けに行こうと思っています。
早くから、決まっていた圭三さんたち主催の、釣りキャンプが七月四日から八日までアラバマであります。一時は、どうなることかと思いましたが、ダディも術後六週間となり、マーフィー先生の診察も、チェン先生の診察も、その前には終わりますので、問題なく同行出来ることになりました。第一日目の夜のメッセージを依頼されています。一日一回のショートメッセージですが、良いお交わりの時でもあります。次の第7便は旅行から帰ってからになるでしょう。
この前の日曜日の夜は、教会で行われたコンサートに行きました。男声四重唱のグループが招かれてきていたのですが、とても素晴らしく、日本のダークダックスを思い出しました。間での「語り」の部分が分かれば、もっと楽しめただろうにと、残念に思いました。
旅行に出発する前の日曜日、七月一日の礼拝では、ダディが圭三さんの通訳つきで説教のご奉仕を頼まれています。こちらの説教は短い上に、通訳の時間を考えると本当に短くまとめなければならないので難しいことですし、圭三さんも、説教の通訳は初めての経験で心配しています。どうぞ、二人のためにお祈りください。
皆様からのお便り、情報楽しみにしています。皆様の毎日が祝されたものであります様に。
郁子