一麦:渡辺家のHP
アトランタ発第107便
2013・1・15
アトランタは、きのうからあたたかく、半そで姿の人も見かけるほどです。
寒いと言う日本のニュースを見て申し訳ない思いになるくらいです。新しい年が始まって、もう2週間。今年も、どんどん過ぎて行くのだなと思いを新たにしています。遅ればせながら、皆様の新しい年が幸多いものである様にお祈りしております。
昨年十二月半ばから体調をくずし、簡単な風邪だと思いましたら、肺炎だといわれ、一切無理をしないで注意深く過ごしました。予防注射もしてありましたので、症状も軽く、いつもならもっと動けるくらいでしたが、こじらせて入院とでも言われたら、大変なことですので、クリスマスも、年末年始のこともみんな失礼させていただきました。
「最低のことだけ」と言う生活をまもり、もうすっかり、良くなりました。あらためて新年のスタートだと思っています。と言うわけで、アトランタのクリスマス情報は何もありません。
十二月に入って、孫たちも、大学から帰って来ていたのですが、私は部屋にこもっていて、27日からは一家がインディアナに出発するので、松井家まで、忠信とリンで送り届けてくれました。その後、ほとんど、良くなったと思って、大晦日の例年のパーティーに顔をだし、元旦礼拝から出発しました。でも、久しぶりに教会で心配していてくださった皆さんの顔を見て、嬉しくなっておしゃべりをしすぎて、夜には咳に悩まされる始末でした。元旦礼拝に出席してから帰宅するつもりで出かけた途中で、「カリフォルニアから糸井洵子さん(普段はカリフォルニア在住)がアトランタに行っているから連絡して・・・」と言う電話が、ビューフォートの竜子さんから入りました。7月のキャンプでちょっとお話をしましたが、ゆっくりお話したことも無く、良いチャンスを与えていただいたと思ったのですが、調べてみると、滞在先のお家まで1時間半ほど、かかりそうで、とても、一人では行かれないところです。洵子さんを知っている人はアトランタに何人もいらっしゃいますから、だれか、ご一緒に行ってくださる方はないものか、元旦礼拝の後、たずねてまわりましたが、ダメでした。その上、私の体調も、良くないので、2日はあきらめました。でも、まだ3日と4日は滞在している、とのことですので、続けて捜すことにしたのです。
でも先ず病院に行かなければと、思い電話をした結果、3日に診察と言うことになり、3日もあきらめて、あと4日だけのチャンスになりました。2日の夜遅く、忠信とリンがインディアナから帰り着き、翌日の病院へはリンが連れて行ってくれることになりました。新しい咳止めを出していただき、咳もおさまり落ち着きました。そして何と翌日は、忠信たちに連れて行ってもらう事が出来たのです。お訪ねしたのは湖を囲むように作られている大きなリゾート地にある、タイムシェア(一定の期間契約のご自宅)の一軒家。ゲートを入ってから迷うようなところでした。これではGPSを持っていても迷ったかな、と思うところ、管理人に数回、電話(英語)をかけて聞きながらやっとたどり着きました。伺ってみると、洵子さんも3日は足が痛んで苦しんでいたそうで、「4日」が神様の時だったのだな、と納得、感謝したことでした。忠信たちは、近くをまわってくるということで、私は一人で訪問することになったのですが、それも、良かったと思っています。洵子さんのご主人の糸井さんは四年ほど前に天に帰られたのですが、若い頃、日本航空に務めていらっしゃったことを聞いていました。その頃、私の一番下の妹玲子が日本航空にお勤めを始めたのでした。玲子はその三年?後、留学でアメリカに渡りましたからほんの短い間だったはずですが、お世話になったのだと思います。糸井さんもその頃、ご結婚なさったと言うことでした。洵子さんたちは、岐阜の美濃ミッションと言う団体の宣教師さんに導かれたと言うお話を伺い、だんだんに話していくと、私の学校の寮で同室だった友人、菊池容子さんのことなども良く知っておられたり、母教会の松原先生とも関わりがおありだったりと、共通の古いお話が出てきて、大変楽しい時間を過ごす事が出来ました。やはり、これは、「誰か」と一緒でなく、私たち二人に与えられた時間だったのだなと感謝したことでした。
さて5日は子供たちが私の誕生祝をすると計画をしてくれていました。孫たちは学校だから、と思っていたのですが、突然、マイケルが友人のお父様がなくなったので、お葬儀のために帰ってくることになりました。ついこの間、今度は自動車をもらって自分で運転して帰ったところだったのですが、早速、それを運転してくることになりました。2年の間、車なしで、帰省の時には友達に乗せてもらってお世話になっていたのです。着いてその夜が「お通夜」にあたるビューイング、葬儀は翌日2時からです。誕生祝は頼子の家の近くの中華レストランですが、葬儀場はその途中です。ということで、私も葬儀に出席しました。マイケルの学校のバンド・リーダーをしていた先輩のお父様でしたが、教会の音楽指導者だった方だそうで、教会学校の生徒と思われる子供たちの一団も見られました。以前、母校ホーク学長の葬儀に出席して感じたのと同じような感じを持ちました。たくさんの天国の歌、子供の歌などが流れ、明るい雰囲気でしたが、残された四人?の子供(22歳の下に三人)を含むご家族の為に祈りました。
食事会は6時半からなので、1時間ほど、JEJUと言う韓国の「お風呂や」さんに寄ることになりました。私も、シャワーをおそれていたので、ゆっくり安心して温まれるかと、一緒に入りましたが、マイケルも同行。久しぶりに日本のお風呂を思い出したのではないかと思います。日本の家に来ていた3才ころ、お風呂がすきで、なかなか出てこないので、私が水を抜いてしまうと、腹ばいになって水がなくなるまでがんばったことなど思い出しました。
いよいよ次の週から、活動開始です。木曜日10日には勉強会のあと、誕生会が計画されていて、おすし屋さんに移動。にぎやかに楽しく祝っていただきました。その他にも、電話やメール、カードでたくさんの方にい祝っていただき、78才になりました。年を取ったものだ、と思っていましたら、89歳になった友達のようなチェンバレン先生からスカイプをいただき、同じ様に89歳から94歳になっている、同僚の宣教師仲間の話をいっぱい聞かせていただいて、なんだか「若いのではないか」と思えて来ました。もっとも、それらの方々はアルツハイマーをはじめ、脳梗塞で倒れている方がほとんどで、毎日1マイルも歩いているのはチェンバレン先生だけです。私が数回シアトルにある島のご自宅にうかがわせていただいたことのある、パット・クラーク先生もご同僚で、今年はカードが戻って来たので、案じていましたがやはり、4ヶ月前に倒れられたそうです。奇跡的にいのちは取りとめ、リハビリにはげまれ、歩ける様になったけど、話の方はなかなか、と言う状況だと聞かされました。
かぞえてみると、病床で戦っている親しい方が十数人になります。動けることを感謝して、今年も前向きにがんばりたいと思っています。
土曜日のバイブルクラスの方もスタート、今年はご一緒に「一年で聖書を通読」をめざし、通読表を作りました。楽しい仲間を与えられて感謝しています。
牧実たちも3月には引越しを考えているとのこと。忙しい年になるでしょう。
今年はシンシナティーの創造博物館にノアの箱舟が完成される予定の年ですが、まだ情報が入ってきていません。私たちは、5月の後半に何かのツアーを企画する話が出てきて祈っています。相変わらずの、井戸端情報ですが、よろしく、お付き合い、お願いいたします。お元気で。
郁子