一麦:渡辺家のHP

アトランタ発第126便(終)   

2019 夏

 

  2001年3月31日、神様に導かれてアトランタに移住してまいりました。100便目のときも感慨深いものがありましたが、今回はいよいよ最終便を書くことになりました。主人と一緒に過ごした九年間、日本とは違う環境の中での伝道のご奉仕も楽しいものでした。運転が大好きだった主人のおかげで あちこちの集会にも出させていただきましたし、80歳の誕生祝をすませてから、20州を回る旅が出来たのも大切な宝箱の中の思い出です。主人が召されてからの一人旅も、子供たちの配慮を受けながら、周りの皆様との勉強会など私なりに使命を覚えながらの楽しい10年でした。

  しかし、今回大きな決断で、日本に帰ることにいたしました。一人になってからほぼ1年おきに健康保健の手続きの為に帰国し、九州から四国、関西、東北、青森、北海道と地方の友人や教会とのお交わりに加えて頂く楽しみを与えれました。新幹線の発達と、レールパスと言う安い切符の恩典を使っての巡回旅行でした。

  そんな生活の中で、日本からは見えないだろうと思うアメリカでの老後の生活について考える様になりました。一人になって、日本を懐かしみながら、寂しい生活を余儀なくされている方の話は悲しく聞こえました。何とか、「ふるさと」を諦めないで日本人として幸せなご生活を送っていただけないものかと考えていました。

そんなときに手指の痛みにリウマチの疑いが掛けられ、日本で検査する事になり、2018年,6月に帰ったばかりでしたのに、11月、再び日本に、今度は永住帰国の準備もかねて出かけました。今回は、不思議なことの連続でした。

  着いたばかりの頃は「日本のクリスマス関連」の催しに次々と出て楽しむつもりでした。ところがクリスマス直前、北海道から帰った次の日に、妹が体調を崩して緊急入院。一週間たってやっと退院した翌日、29日、今度は弟が「キトク」の知らせが入り、すぐに、くりこま高原(仙台の先)まで行かなければなりませんでした。年末ラッシュのピークで、指定席は全然取れません。やむを得ず、とにかく東京駅に駆けつけました。不思議なことに、呆然と乗り込んだ私たちの前に二人分の空席が用意されていたのです。仙台で乗り換えた先の列車にも二つの空席が待っていたのでした。私は、まだふらふらしている妹を連れて神様が備えてくださった二つの空席で無事に病院まで行き、弟を見送る事が出来ました。その後、遺言により、散骨の為伊豆の大島に行く途中、今度は私が電車の中で倒れて、駅員さんが呼んでくれた救急車で心臓では日本一といわれる調布の榊原記念病院に運ばれることになってしまいました。さまざまの検査が行われましたが、その中で、膵臓の異変が指摘され、二月末の帰国は延期せざるを得ませんでした。4月になってやっと「癌」の疑いから解放され、帰国は5月20日の便と決りました。遠くに出るわけにも行かず、時間がありましたので、友人が入所している千葉市の施設にお見舞いに伺うことにしたのですが、そこで、私の話(海外から帰国を願いながら、受け入れてくれる家族の老化も進み、諦めて寂しい思いをしている方々の「ふるさと」を作る働きを始めています)を聞いた友人が私の家を使う?」と思いがけない話になったのです。

  その少し前、他の友人で、以前、息子さんをアトランタに留学させていた方があるのですが、その一人息子さんが召されたと聞き、お慰めのお便りを出したことからお交わりが回復し、この時、「その家を見に行く」と言う最初の「行動」にもご一緒する事になりました。

  いろいろありましたが、結局その2回目の話であった「家」についても諦めざるを得ない状況になった時、今度は、その方が、ご自分の家を提供すると申し出られました。紆余曲折がありながらも、この働きの広がりと協力者、賛同者は増えていきました。幸いなことに何年か前にアメリカから帰って今は日立の教会の牧師をしておられる兄弟団の佐藤恵一先生が理事長として立ってくださり、「一般社団法人、帰国基督者支援協会ふるさと」が設立されました。そしてアメリカ側では、私が帰国するための挨拶回りで、一気に話が広まり、多くの方から「希望が出来た」と喜ばれることになりました。その喜びの空気を皆様にも見ていただきたかったほどです。実際には、私が帰国してから順次整えて行きたいと思っておりますが、とりあえずは北本市石戸7−100の「横山さんの家」が使われますが、できれば年内にでも更にもう少し便利なところが備えられる様に、目下不動産やさんと「家捜し」で協力中です。つまり、「行く先を知らずに」荷物の発送をしているわけで、アブラハムの心境です。お祈りください。

私のケイタイ(080−3343−0189)または、佐藤先生の電話(0294−22−4383)にご連絡ください。

  もう一つ、アメリカに帰ってから、引越しのためバタバタしておりましたが、びっくりするような事がありました。七月30日、近くのスーパーからの帰りに、どうやら一瞬、意識を失ったらしく、気がついたら反対車線を走っていたのです。直前の「一旦停止」ではきちんと止まった覚えがあるのですが、その後のカーブを曲がった覚えがないのです。どうやら曲がりかけている時に意識がなくなり、曲がりきれないで、反対車線に入ったのだと考えられました。前から来る車の方が間違っていると思い、一瞬、その車が避けないのが不思議に思われたのですが、スグ次には自分が反対にいるのだと悟りました。正しく右車線に戻ろうとした時に、幸いなことに「危険」と感じて思い止り、反対側の人家に入って止まりました。お祈りをして落ち着いてから家に帰ったのですが、それ以後、きっぱり、運転をやめる事になりました。 家の者はますます忙しい事になったわけですが、それにしても、あれは何だったのだろうかと考えてしまいます。入院中に心房細動を起こし、似たような事が起りかけた様に思いますが良く分かりません。いずれにしても、何事もなかったのはただ神様のお守りのおかげだったと思います。五十年あまりの運転生活を無事に終われたことを感謝する気持ちです。いよいよ9月20日に成田着。何回目かの再出発になりますが、これまで同様よろしくお願い致します。皆様の上に豊かなご祝福がありますように祈りつつ。                             

郁子

 

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