一麦:渡辺家のHP

 

アトランタ発第16便

2002・4・22

長い長い旅からやっと帰って参りました。3月6日にアトランタを出発し、一年ぶり25日間の日本訪問、31日に一旦帰宅し、中三日おいて4月4日にオマケのアメリカの国内旅行に出かけました。一つはダディがまだ見たことがない、メリーランド州ボルチモアに住んでいる息子忠信の家です。この秋から、ペン・ステートと呼ばれる「ペンシルベニア州立大学」に転職することになり、夏休み中に引っ越すことになりましたので、最後のチャンスというわけで決めました。そしてもう一箇所、テキサス州ヒューストンの佐藤恵一宣教師ご一家の訪問も加えました。ダディは、昨年3月まで「佐藤師を支える会」の副会長でしたので、その時以来念願の現地訪問です。合わせて6週間の旅でした。中三日の間にこの第16便を書くつもりでしたが、日本から風邪をお土産に持ってきてしまい、102度(華氏で、摂氏だと39度)の熱を出して寝てしまいました。でも奇跡的にすぐによくなり、予定通りに後半の国内旅行も楽しむことができました。最後のヒューストンでは、初めて花粉症らしき症状が出て困りましたが、帰宅して圭三さんにプロポリスを勧められてのんだところ、翌日にはよくなりました。ということで、たくさんのことがあって、何を書こうかと迷っていますが、とにかく、辿った道筋を追い、整理しながら書くことにします。

 成田空港で、入国審査・通関を終え、レンタカーのカウンターに行ったところ、インターネットで予約しておいた希望の車種がなく、同クラスの「ファンカーゴ」を用意されていました。これだと車高が高く、都市部に多いタワー式駐車場に入らないので、少し不便だなと思いましたが、我慢することにしました。といっても乗り心地は良く、運転しやすく、燃費も結構いいのに満足、これで25日間に4860kmを走りました。事故も無く旅を終われた事を感謝しています。

ところで、日本に着いて、最初に「日本を実感」したのは何だと思いますか?それは、完全に密室になっている空港のトイレでした。というのは、こちらでは公共の場(空港・デパート・学校等)のトイレ(レストルーム)は横の仕切りも、前のドアもひざの高さから上だけなのです。はじめは気になりましたが、いつのまにか慣れてしまっていたのですね。

 25日間に、成田中野(東京)愛川厚木岐阜名古屋高松新居浜宇和島八幡浜和歌山神戸静岡清水厚木愛川中野仙台秋保温泉那須宇都宮軽井沢小諸更埴長野韮崎小淵沢府中(東京)→市川(千葉)中野鎌倉中野町田(東京)箱根厚木愛川中野(千葉)成田と飛び回り、毎晩異なった地に泊ったことになります。ダディと私の妹あわせて4人の家に全部で10泊、教会・友人宅に5泊、ビジネスホテルに5泊、ペンションに1泊、温泉ホテルに3泊(小淵沢、軽井沢、秋保)、とバラエティーに富み、バランスも最高でした。それに、どこでも寝られるというお恵みのおかげで、毎晩【陰の声『その上、移動の車中でも』】熟睡しましたので、疲れを感じる事はぜんぜんありませんでした。

 さて、お訪ねした中で、JCCの同窓生関係のことは、「ロバの耳」に『日本かけある記』を書きましたので、ここではその他のことをピックアップして『日米とびある記』としましょう。

 私たちの気がかりで、少しでも早くお会いしたかったのが、岐阜の川村牧師夫人のさちさんでした。昨年の秋、多発性骨髄腫と診断され、大学病院に入院されたものの、治療を中止して、自宅に戻られた、というお知らせを頂きました。お祈りをし、ダディの知識でできるアドバイスをメールで送りました。3月10日、隣町の会堂での少し早い時間の礼拝に間に合うように、8時過ぎに着きますと、元気のいい明るい声でさちさんが迎えて下さいました。とても痛みに苦しむ人とは見えませんでした。礼拝から愛餐会と忙しく立ち働いている姿が何か不思議でした。午後少し横になったら、とお勧めしても、大丈夫ですとおっしゃって、色々話してくださいました。別の大学病院で、新しい理論による副作用のない治療を、神様の導きと信じて受けておられるという事でした。私たちもこの治療に祝福があるように祈り続けています。その夜は、娘婿・圭三さんのお母様を交えての夕食会が用意されていました。楽しい時を感謝して、教会に泊めて頂きました。

12日に、名古屋の一麦教会に松原先生をお訪ねし、お祈りして頂いて、四国へ向かいました。ここで新しい出会いがありました。宇和島の同窓生の山崎恵子さんが労しておられる朝祷会に近隣の教会の方が集まっておられますが、その一つ、八幡浜市にある福岡先生の教会が、見ず知らずの私たちをお招きくださったのです。お話するうちに、私たちの恩師松原和人先生をご存知だったり、共通の話題が色々出てきたりしました。数年前に新築された教会堂で、料亭並のすばらしい夕食の後、夜の集会でそれぞれ御用をさせていただき、安らかな眠りが与えられました。翌朝は信徒の方が、早くから朝食の用意をしに来て下さるなど、大変お世話になりました。

次に、和歌山を経て神戸に入り、以前アトランタで何年かを過ごされた岩崎先生の神港教会が、教会を挙げて準備された特別集会で、伝道講演をさせていただきました。先生とご家族を知るこちらの大勢の方からは、うらやましがられました。個人的には、まだ語り足りないような思いが残りましたが、いろいろとお土産話を持ち帰ることができました。

五十年来の友人である上野高校バレー部のOB会は、寅さんで有名になった葛飾・柴又の川甚にお席が用意されていました。日暮里に集合、なつかしい京成電車に乗って行きました。私達の高校は上野公園の中にありますので、桜は「我が家の庭の景色」でしたが、何とその19日には、記録的に早い開花宣言が出て、お花見までできたのです。戦後の苦しい生活の中で、夜の高校に通っていた私達が、暗い気持ちどころか最高に楽しい高校生活を送れたのは、バレーボールをやっていたからであり、このお仲間がいたからでした。二人の方は亡くなりましたが、元気なみんなに会って、あの頃のこと、今のことなど語り合うのは格別な思いがし、とっても嬉しく思いました。私にとって、もう一つ忘れられない一日がありました。仙台・秋保温泉で牧実を除く(お土産で参加していましたが)兄弟姉妹全員が集まれた事です。46年前に父が召され、両親を失った私達5人は、一番上の私と牧実が21歳になったばかり、助け合いながらやってきましたが、全員で旅行など集まる機会を持つ暇もありませんでした。数年前に姉妹4人で上海へ里帰り旅行をした事はありましたが、弟の参加は難しく、今回の顔合わせは「40年ぶり!」ということでした。eメールで連絡をとり、残りの人生を、お互い助け合っていく事を確認できました。

私が実家のようにしている最年長(81歳)のお友達、軽井沢の土屋文子さんが、「塩壷温泉」でご一緒に温泉に入り、ご馳走を頂くというプレゼントをご用意くださったのにはびっくりで、お礼の言葉も無いほどでした。翌日は、小諸へ行って、心ばかりの「親?孝行」の真似事でもさせていただこうと思いましたのに、ただただお世話をかけただけでした。お別れが辛いことでした。

とびとびに3泊させて貰った愛川町の義妹里子さんの所では、昨年、出発の朝、雪を見てびっくりした部屋に泊めて貰い、まだそのままになっている「旧宅」を懐かしく眺めてきました。ここでの29年は、転居の多かった私にとって、一番長く住んだ家でした。ダディの両親、そして義弟の石川先生を送り、私達の生活も、みんなそれぞれに変わりましたけれど、それらの思い出をすべて共有している心優しい人々がいる、ということで「私達の家」に帰った気持ちになれる所です。庭のすみずみまでまわって、全部の草花にまで、挨拶をしてきました。一方、中野の妹維子(すみこ)は、昨秋アトランタに来てくれましたので、四ヶ月ぶりでしたが、色々面倒を見てもらいました。なんだか年々、姉・妹の関係が逆になるような気がしています。入院や手術が必要な大病になったら、ここへ帰ってくればいい、と心強いことを言って励ましてくれ、感謝しています。とても書き切れない、一杯の思い出を持って帰り、「みんな、みんな有難う」と叫びたいような気持ちです。

 3月31日、昨年の雪に変わって、今年は桜に送られて成田を飛び立ちました。帰ってきますと、アトランタでも桜が咲いていました。アトランタに、こんなに桜があるとは思っていませんでした。といっても、私は、病院へ行った以外は外出していませんから、これはダディの感想です。そう言えば、昨年のこの頃は、ダディは殆ど外に出ていませんでした。後半の旅行について、ドクターのご意見を伺ったところ「出かけたら、途中でよくなって、来て良かったナーと思うかもしれないし、来なかった方が良かったという状態になるかもしれない」とごもっともなお返事。殆どよくなり、思いきって出発、咳止めのお世話にはなりましたが、風邪を忘れて過ごしました。

ボルチモアも桜がいっぱいある所ですが、その上、アトランタでは終わってしまっていた「花梨」の真っ白い花も一緒に咲いていました。6日の土曜日には、自動車で一時間ほどのワシントンDCまで、「桜まつりのパレード」を見に行きました。パレードは、さまざまな趣向のものが続きましたが、とても寒い日で、浴衣姿の人や、レオタードや水着の人たちを見ると、こちらの方が震え上がる様な気がしました。イカ焼きや、やきとりの露店も出ていました。パレード見物を切り上げて、美術館を見たり、ポトマック川沿いをドライブしたりしました。さすがに、見事な桜・桜・桜で、日米の友好の記念として贈られた歴史を思わされました。次の週、火曜日には、孫たちも学校を休んで、ペンシルバニア州に出かけました。はじめに書いたように、忠信が別の大学に移ることになりましたので、新しい住まいとなる家を探すためです。ステート・カレッジという名前の、大学が中心の町でした。ペン・ステートの学生は四万人くらいですが、学生以外の住民も4万人くらい住んでいるということでした。この日、かねて連絡してあった業者に、4軒の家を見せてもらいました。もっと色々見て決めることになるでしょう。

 12日からは、ヒューストンです。恵一先生のご両親は、ダディの若い時のお仲間(救霊伝道隊の先輩で同労者)でした。彼が生まれたとき、私は牧実と二人で見せていただきに行きました。彼が私の後輩としてTCCを卒業した後、アトランタに留学する筋道をつけたのが私達で、それが今宣教師としてアメリカにいるきっかけでもあるのです。私は5年前に一度訪ねていますが、そこに、二番目の赤ちゃんが誕生しましたので、今回は、孫をみるような思いで出かけました。5ヶ月の由祈ちゃんは、私には笑ってくれましたが、はじめはダディを見て泣きだしました。しかし、後にはなれて、抱かれて喜んでいました。翌日、彼が青年の集会に行っているダラスで、ミッション・バラバの金沢師の特伝があり、ダディは、そこへ彼と一緒に行くことになり、朝7時半に出かけました。(片道5時間のドライブです)私は、ヒューストンで、午後の婦人の集会でお話をしました。ダディは夜中の3時に帰って来ました。聖日は、台湾の教会を借りて、午後4時から礼拝、火曜の夜は、通常は青年のバイブルスタディですが、私たちがいるので大人も参加する集会になりました。集会のない時に、NASAのスペースセンターへ連れて行っていただいたり、おにぎりをもって美しいヒューストンの野の花を見にピクニックに行ったりしました。ジョージアともメリーランドとも違うテキサスの風土に触れて、あらためてアメリカの広さと多様性を感じたことでした。ここまでがんばってきたご一家の様子を見て感謝し、これからに期待しながら帰途につきました。

今回はこの辺で…  御祝福を祈りつつ

                    郁 子

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