アトランタ発第18便

2002・5・31

沖縄は梅雨に入ったと聞きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私たちは、日本プラス・アメリカ国内二週間、という一ヵ月半の旅行のため、ダディの学校を1学期間休みにして行きましたので、帰宅後もまだ「休み」のお釣りがあって、しばらくゆっくりしていました。 

学校は、5月6日に新しい学期が始まりました。継続なので、最初の週のオリエンテーションなどには出なくても良いので、実際の勉強は、次の週13日からでした。久しぶりの勉強の方は、レベル3をもう一度やることにしていますが、先生方や事務の方々に、帰ってきたというので歓迎されたそうです。

私の方は、前便にチョット書きましたように、初めてのミシガン州への伝道旅行をして来ました。今回は、ヤマハの駐在員でマイレージがたまっているという三上さんが、Eチケットを買ってくださいましたので、手数料10ドル、1200円ほどの飛行機代でした。(それも払っていただいたのですが)私は、コンピューターから打ち出された紙を持って飛行場へ行けば、切符になると言われても、初めて使うわけなので、少々不安な思いで出かけましたが、すべて、準備されていて何の問題もありませんでした。デトロイトでの乗り換えも初めてでしたが、アトランタに比べると、小さくて、カワイらしい飛行場でした。アトランタの飛行場には、真っ直ぐ行くだけですが距離があるため地下鉄が通っていて、コンコースごとに七箇所で停まります。デトロイトの飛行場では、広いドーム型の通路の天井近くを電車(モノレールの感じ)が走っていましたが、途中一回だけ停まるものでした。あちらこちらに大きなクエッションマークがあるので、行ってみますと、その下には色々な国の言葉で「案内」が書いてあり、ちゃんと日本語の案内もありました。

ネットランド先生がおられるのはミシガン州のグランドラピッツというところですが、小さい飛行機に乗り換えてから40分ほどかかります。そこは、ほんとに小さい飛行場で迷いようがないくらいでしたが、ネットランド先生は、何年か前の事故による後遺症で、長い時間立っていることがおできになりません。それで、座れるようになっている4本足の杖を支えに待っていてくださいました。大変ご不自由のようにお見受けしましたが、そんな状態でおられながら、大きなお家に一人で住んで、お客様も迎え、地域の日本人のために、活発に活動しておられるのに感心させられました。

一時、寒かったアトランタも、もう半そで、短パンの気候になっていましたので、少し北に行くのだからと、着るものなど用意したつもりでしたが、予想をはるかに越える寒さに重ね着をする有様でした。翌日は、朝のうちに、ネットランド先生が出席しておられる教会に御一緒しました。アメリカとしては少ない六・七十人の出席者がいる教会でした。説教が始まるまで、報告や賛美の時間、講壇の上でマイクを手に立っている少年が目に付きましたが、それは、牧師先生の十三歳になるダウン症のご長男だったのです。持っているマイクは音が出ないようにしてありましたが、それにしても、こうやって自由にすることを教会員たちが受け入れているのはすばらしい事だと思いました。お父さんが前に立って歌うときには、自分も隣に立つと決めているようで、時々寄りかかって甘える子を支えながら賛美を歌われる先生の姿には感動を覚えました。礼拝後、ネットランド家の三男で、四歳のころ幼稚園でお世話したジャニーちゃん、今は神学校の先生をしているジョンのお家で、ご家族と一緒に楽しくお昼を頂きました。

その後、ネットランド先生をお手伝いしてくださっている佐々木さんが私達二人を、一時間くらい離れたオーランドというところの日本語礼拝に連れて行ってくださいました。アトランタではとっくに終わっているチューリップが満開で、この日はチューリップ祭りの最終日、パレードの日でした。あいにく雨でパレードはありませんでしたが、チューリップは実にきれいに咲きそろっていました。聞くところに寄れば、ここはオランダ人が多いそうで、何となくヨーロッパ的な雰囲気がイッパイのところでした。そこでの礼拝は、ここにある改革派の神学校の多目的ホールが使われていて、学長夫妻も出席してくださり、奥様がピアノの伴奏をしてくださいました。四・五組のアメリカ人のご夫婦がご出席になりましたが、日本での宣教師生活を終えて、帰国された方々で、引退後も何かと日本に関わるご奉仕をしていてくださる様子に感謝を覚えました。礼拝後の食事の時間は、ポットラックということで、手作りのご馳走が並んでいました。このグループをリードしておられる中嶋先生は、この地域にある学校に、日本からの短期留学生の多いことに気がついて、ご自分の勉強が終わった後もここにとどまって働く決心をなさったとの事でした。生後四ヶ月になるレアちゃんがこれまでに三回も開胸、開腹手術をしなければならない、という大変な経験をしていらっしゃいますが、とても落着いて、よく皆さんの中に溶け込んで、良いご奉仕しておられ嬉しく思いました。

月曜日は、カワイらしいホテルのバイキングをしながら、母の日の特別、レディース・ランチョンになっていました。佐々木さんが香りの良いバラのコサージュを作って下さったので、香りと味を楽しんだ一日でした。そして、次の日は、小さい子供がいて、ホテルのランチョンには出られない、という方々が一軒のおうちに集まっての集会がもたれたのですが、そこで、チョットした自己紹介的な会話の時に、二人目の方がなんと、私達が、結婚のお手伝いをさせていただき、主人が司式をし、忠信がリング・ボーイをし、頼子がフラワー・ガールをした、あの岐阜の川村先生たちのお子さん、今は斎藤千恵子さんだという事がわかり、びっくりしました。三女の方には、かわいかったから名前を貰いました、ということで頼子ちゃんという名をつけられたご家族です。あまりのことに、両方ともあっけに取られ、周りの方々も信じられないと言う顔をされていました。千恵子さんたちご一家は、ここでの勉強が終わる来年には、私達の仲間、鈴木敏子宣教師の後になるため、台湾に出発されるということでした。

三日目の集会は、夜ですから午後出発することにして、朝のうちに近くの、フレデリック・メイジャー・ガーデンに連れて行って頂きました。少し、暖かくなりましたので、足のお悪いネットランド先生に合わせて、あれこれおしゃべりをしながら、ゆっくり、公園を散歩しました。中にはいろいろな芸術品のコレクションもあるのですが、特に有名なのが、世界一大きい馬の銅像です。これは、五百年前にレオナルド・ダビンチが頼まれて下絵を書いた巨大な馬の絵によるものだそうです。当時のイタリアは戦争のため貴金属が没収されていて材料の都合がつかず、ダビンチは細かいところまで綿密な図を作って残し、三年前にやっと出来上がったもので、高さは7メートル、重さは15トンある勇ましくいなないている馬でした。

次の予定、アンナーバーまでは、2時間半から3時間のドライブが必要、ということで三上さんの奥様、オランダ系アメリカ人のロイスさんが、その労をとってくださることになりました。途中、ミシガンの東部、西部、北部、の歴史、そして、これから訪問するアンナーバーとバトルクリークの歴史を聞かせていただき、とても楽しかったのですが、事故渋滞に巻き込まれ、なんと5時間もかかってしまいました。ロイスさんは大急ぎで夕食をすますと、すぐにとんぼ返りでお気の毒な事でした。この町は、ユニバシティー・オブ・ミシガンをはじめ、大学を中心にした、学術の町のようでした。集まった方々も、研究者、学生さんが多いようにお見受けしました。お家を開いてくださっているのは、会社の社長をしておられる竹内さんです。五十人くらい入っても何ともないというような広々としたお家で、翌朝うかがったところによると、なんと、ここはゴルフ場の中だとの事。一年に1回くらいボールが転がってくる事があるそうでびっくりしてしまいました。月に一回、このような家庭集会を開いておられるとの事、感謝でした。次の日のバトルクリークでの集会は十時からだということで、竹内さんの車で八時に出発。いろいろ竹内さんの幻を聞かせていただき恵まれました。

バトルクリークは、コーンフレークスの誕生の地です。土地が良く気候がよくて、あんまり良く出来るとうもろこしの保存に困った結果生まれたのだそうです。さて、ここに集まった方々は、小さい子供さんを連れた若いママさんたちでした。立ったり、座ったり、お話も聞いていられないのをお見通しの中嶋先生は、ちゃんと、テープを用意してこられてさすがでした。  

ここからは、中嶋先生がネットランド家まで送ってくださいましたが、その道中もまた楽しく、日本の最初の宣教師、バラ先生に導かれた私の親戚一同のことに先生が興味を持たれ、帰ってから資料をお送りすることになりました。最後の晩は、佐々木さんのお宅にお呼ばれでしたが、難病に苦しまれるお嬢さんの洋子ちゃんとも御一緒できて感謝でした。

今回の旅行では、ミシガンの各地にたくさんの日本人がおられる事、また、良い先生たちがいてくださることを知り、嬉しく思いましたが、同時に、いろいろな問題で苦しんでいらっしゃる方々が多いことも実感しました。困難の中で、信仰による勝利を発見し、輝いておられる方々には大変な励ましを頂きました。名前はとても覚え切れませんでしたが、お一人一人の上にも、神様の御祝福を祈っています。どうぞ、皆さまお元気で。

                                                      郁子

 

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