アトランタ発第20便
2002.8.1
連日暑い日が続いていることを、テレビで拝見し、各地の気温を見ながら、それぞれの地にいらっしゃる皆様のことに思いをはせております。19便を書いてから一ヶ月以上たってしまいましたが、いろいろな事があって、アッとい間に過ぎたようでした。
6月25日の朝、私達は親しくして頂いていた、友子ヴァーンさんが心臓発作のため、突然天国へ帰られたというお知らせ電話で目を覚ましました。二十年もの長いお付き合いで、頼子のことはご主人共々、実の娘のようにかわいがって下さっていました。実はこの数時間後、メールによって日本の親しい方がお二人、天に帰られた知らせが入って、私達には忘れられない日になったのでした。その後の葬儀では、友子さんの葬儀でありながら、三人の方をお送りしている気持ちでした。友子さんは、数年前から腎透析を始められて遠出が出来なくなり、何かと不自由なご生活でしたが、文句をいうことも無く、周りを明るくするような方でした。私達がこちらに来たことをとても喜んでくださり、前の週に骨折の入院からやっと退院し、先送りになっていた色々のお祝いをいっぱいやりましょうと言うことで、毎晩でも会食計画を立てなければという希望をもっていたところでした。
あいにく、武田牧師たちが三女の、のぞみちゃんのところに生まれた新しい孫を見に、ロスへ行っていましたので、時差3時間のこともあり、夜明け前にたたき起こす電話をかけることになりました。友子さんは教会の四人の方を「娘」として特別に決めておられましたが頼子はその中で「次女」でした。長女と言う方は日本に帰国中、三女と言う方はよその国に引っ越していかれていましたので、今回の葬儀は、頼子が一番のお姉ちゃん「娘」として、四女の大竹桂子さん(長い間、この松井家に住んでいた)と、友子さんの古いお友達エミ・ギビーさんの三人で色々決めなければなりませんでした。ご主人のクリフさんは日本語も判りませんし、お年もいっておられ、何も出来ません。日本から来られた友子さんのご親戚のお世話は、エミさんが引き受け、桂子さんと頼子で、アメリカの葬儀の一切を調べながらよくやったと思います。教会の婦人会の方々にも、手伝って貰って後の片付けまですっかり、お世話しました。
30日には圭三さんのお母さん、松井敏子さんが81歳のご高齢の一人旅で、アトランタ到着でした。友子さんとの再会を楽しみにしておられましたので、ショックを与えないように、着いてからお話しし、葬儀の行事の最後、「偲ぶ会」に出ていただきました。
7月3日からは、フロリダ、パナマシティーでのファミリーキャンプがありましたので、クリフおじさんのことを心配しながら出かけました。(8日までは弟さんがいて下さいましたが、7日、帰りには途中でお寄りし、大分落ち着かれたご主人を見て安心したことでした。)
キャンプの方は、大人18人子供3人で、コンドミニアムを三つ(3ベッドルーム付きを2戸と2ベッドルーム付きを1戸)借りました。道路の下のトンネルをくぐると、メキシコ湾の浜辺です。魚を釣るピアまでは車でいかなければなりませんでしたが、車は6台で行きましたので、不便はありませんでした。今年はアジがたくさん来ていてよく釣れました。他にも、かつお、サワラ、スペード、ホワイティー、など終わりごろに数えた方によると10種類の魚が上がりました。三日目には、希望者15人が、船で沖釣りに行きました。何しろ、大漁で、献立のカレーをやめて二晩魚料理にしましたが、刺身、煮魚、揚げ魚、塩焼き、バター焼き、南蛮漬け、味噌漬けと魚の顔を見てはガンバリましたが、それでも食べきれないほどの大漁でした。
ダディは三日目の船にも乗っていきました。私は、その日、船に乗らなかったご婦人たちにお刺身づくりの講習をしてあげましたところ、マスターされた方々は、午後の時間にピアに出かけ、つれた魚を早速お刺身にしておやつを食べていました。
船は、6時間のコースで30ドルでした。沖では、カワハギの仲間だと思いますが、大きいものがたくさん釣れました。タイも何匹かかかったそうですが、その多くが「40センチを守る」という決まりがあるために、どんどん放されてしまい、釣った者たちは悔しがっていました。
さて、私は「魚をさばく」のに力を入れすぎて三日目の夜は筋肉痛に苦しむ羽目になってしまいました。特にカワハギは本当に皮が堅くて苦労しました。でも、とても美味しい魚でした。
明日は帰るという最後の晩、9時半まで明るいので、何年ぶりかで海に入り、久しぶりに泳ぎを楽しみました。もちろん何人かは夜釣りに出かけ、圭三さんはタコを釣ってきました。翌朝、それを聞いた子どもたちが「タコ見せて」とやってきましたが、早くも冷凍庫の中で大きな石ころのように固まっていてタコの姿は無く大笑いしました。
実は、それがまだ冷凍のままになっており、何時食べようか、と話題になっていましたが、8月18日、忠信が私達を新しい家まで遊びに行くのを、迎えに来てくれることに、なっていますので、その時に出すことになりました。調べて見ましたら、「塩でよく揉んで、大根で叩く」のだそうです。作るのも、食べるのも、楽しみなことです。
さて、敏子さんの滞在は24日まで、と決まっていましたので、圭三さんと頼子が休みをとって、ノースキャロライナとテネシーへ2泊3日の旅に連れて行ってくれました。私達もあまり観光をしたことがありませんでしたので楽しみにしていました。はじめに見たのは、ビルトモアハウスというギネスブックにも載っているという大きな大きな個人の家でした。船舶と鉄道で大富豪になったバンダ―ビルトという人の三代目が1895年に建てたもので、中には、飛び込みのできるプール、ジム、ボーリング場、パイプオルガン、音楽室、いくつものホール、キッチン、ベッドルーム、少し離れたところにはワイナリーまで備わっていました。毎晩、着飾った人々が集まっていた賑わいを想像すると、時の流れがとても不思議に思われました。
夕方には、テネシーのスモーキーマウンテンの宿に着きましたが、途中は、いくつもの峠を上り下りする道で、わきにはきれいな小川が流れていたりして思わず、奥入瀬の渓流を思い出したり、箱根の峠道を思い出したり、軽井沢の小道を思い出したりで、ほんとに日本でのドライブみたいに思われました。次の晩には、初めてアメリカのカントリーミュージックのショーを見物しました。歌ありダンスありで英語でも困ることもなく、何曲か知っている曲もあってとても楽しかったです。生のテネシーワルツを聞いたときにはとても感動しました。
最後の日は、ホテルの小さな教会で礼拝を守りましたが、牧師さんはサミー・アーサーという方で20年前、日本で2,3年働いたことがあるとのこと、とても喜んで迎えて下さいました。
楽しそうなお店がいっぱいあって、まだまだ見足りない、遊び足りない思いでしたが、お昼過ぎには帰途に着きました。途中にあった、「アメリカンインディアン」の居留地として守られているところのおみやげやさんに寄りましたが、ちょうど日本の「アイヌ」と同じような守られ方をしているようでした。観光用に、あの「衣装」を着けていました。
敏子さんは「まだまだこれからの暑さが大変」と言いながら日本に帰っていかれましたが、こちらはもう夏は終わりと言う感じです。学校は、8月半ばから始まりますので、新学年に備えて「バック・トゥー・ザ・スクール」と、五月に続いて二回目の「消費税なしの日」(衣料、事務、学用品などの指定)があったり、学生割引をするという売出しをしたりしています。
もう、デパートの中には秋物、コート類が並んでいます。道路わきの並木には、早くも黄色に染まった葉が見え始めました。頼子たちの話によると、数年前より季節が早くなったようだ、とのことです。学校も以前は、9月のレイバーデー(勤労者の祝日―第一月)の後からだったのが、早まったのだそうです。どこかで「うるう月」でもすることが必要になるかもしれませんね。
永住ビザ申請の手続きはやっと、今週中には提出できそうになりました。まず、今日の午後、指定医に行って健康診断を受け、破傷風と肺炎の予防注射をされ、その後、指定される病院で水疱瘡の予防注射を受けなければなりません。そして、やはり、厳しい注文のついた写真を(右の耳が見えることなどの)とって、それらが全部手に入ったらアトランタの場合、提出方法は「郵送」なので、郵便局に出します。後は待つだけです。
19日に、ペンシルベニアにむけて出発します。あちらでは、新しい家を見ることのほかに、3時間くらい離れたところに住む、昔、軽井沢聖書学院をやっておられたタイガート先生の奥様を訪問する予定です。ここから15時間あまり北上するわけですから、帰りのころには、紅葉のハシリが見られるかもしれません。そう言えば、数日前、前から見たかった車のマークを初めて見ることが出来て喜んでいます。それは、車に張ってある「魚の形をした」マークなのですが、あれは、キリスト教が迫害された時代にはじまったサインで、キリストを表わすマークです。それに対して、「魚に足をつけたマーク」が進化論者のサインとして登場、そして更に、「魚が、足のある魚を食べているマーク」があると聞いていたのですが、見たことが無かったのです。ついに,昨日そのマークをつけている車を見ることが出来ました。今度のドライブ中にも何か発見があるかもしれません。皆様、お体をお大切に。神さまのお守りと御祝福を祈っています。
郁子