アトランタ発第21便

2002.9.4

 皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。9月1日、防災の日の訓練をニュースで見ました。こちらでは、あの11日のテロから1年目を迎えるというので、チョットせつない風が吹いているような気がします。水曜日に、日本語の勉強に来ているアンソニーは、ニューヨーク生まれのニューヨーカーで、今もお母さんがニューヨークに住んでおられます。会社がなくなって失業してしまい、新しい仕事を探していますが、なかなか難しそうです。

 さて、やっと、ホームページが再開できて喜んでいますが、URL(アドレス)が、前よりも一段と長くなり、うまく読んでいただけるだろうかとチョット不安をもっています。忠信の日記も「ボルチモア・ダイアリー」が「ステカレ・ダイアリー」になり、一部変わっています。

 話は前後しますが、まず、ステカレ(ステート・カレッジ市)への旅行の話から始めましょう。

忠信が空路アトランタに来て、予定通り先月19日の朝7時少し過ぎに、我が家の車で出発しました。まずは、ダディがハンドルを握りましたが、結局11時間あまり、ペンシルベニアの州境を越えるまで運転しました。ウェルカム・センターに着き、その先は少し複雑になりますし、暗くもなりますので、忠信と運転を交替しました。夕食を済ませて9時半頃、新しい家に着きましたが、本当に、祈りに応えて神様から与えられたと実感するような家でした。以前一緒に5軒ほど見て回りましたが、それらのどの物件よりも良いように思われました。忠信の大学へも15分くらい、普段の買い物の店にも、モールにも10分とかからず、ダウンタウンまでも15分という便利さでありながら、落ち着いた住宅街で、前の持ち主の方が作っておられたたくさんの花が咲き乱れていました。居間の窓からはお隣のライラックの大木が見られ、玄関の脇には大きなしだれ桜がありました。ここでの新しい彼らの生活が祝福されるように祈ったことでした。

翌日は、マイケルの希望だったと言うことで、リトルリーグの発祥の地で本拠地の、ウィリアムスポートという町で行なわれていたワールド・シリーズを見に行きました。これは、アメリカの国内八つのブロックと、アジア・太平洋・カナダなど世界八つのブロックの代表チームが、それぞれトーナメントで戦い、優勝チーム同士で最後に決勝戦をするというものです。日本の「仙台東」というチームがアジア代表で来ていて、その日カリブ地域の代表と戦って勝ちました。続く2試合も勝って優勝しましたが、アメリカ代表ケンタッキーのチームとのシリーズ決勝戦では負けてしまいました。何しろ、ケンタッキーのピッチャーはずば抜けてすばらしく、結局そのピッチャー本人が打った一本のホームランだけで決まったような試合だったのです。そう言えば、去年日本の東京のチームがシリーズ優勝した試合をテレビで観たことを思い出しました。本拠地だけあって、小さな町がリトルリーグ一色に盛り上がっていました。周辺の駐車場と球場の間には、シャトルバスが頻繁に走っていました。それでも、時局柄、セキュリティーはバッチリで、バックの中は全部点検され、ダディの持っていたハサミは“あずかり”とされてしまいました。周りにはポリス・カーが何台も待機しているばかりか、数頭の馬まで、シェリフのワッペンをつけた鞍を置かれてスタンバイしていました。自動車より、自由に動けるからということでしょう。野球場はもちろんリトルリーグ専用の施設で、二つの球場で少し時間をずらして試合が行なわれていました。回りには、食べ物屋はもちろん、バッティング・ゲームなどの遊びのテントもあります。面白かったのは、銀行の預金引き出しの器械を積んだ自動車までもが出張してきていたことです。球場の座席の一番前列は、固いベンチではなく、折りたたみのシートで、障害者専用の席になっていました。大ぜいの障害者が、試合を楽しんでいるのを見、周りの人たちの優しいまなざしを見て、とてもうれしくなりました。

翌日からは、忠信の同じ職場の人々の家族ピクニック(公園で持ち寄りの夕食会)に出たり、ダウンタウンをダディと二人で歩き回ったり、庭の手入れをしたり、〈この時、イエロージャケットという蜂にさされるオマケがつきましたが〉楽しく過ごしました。ダウンタウンの路上で開かれていたマーケットでは、初めて日本人に出会いました。その他には、韓国人経営のアジア食品店(日本の食品もある)に行ってみましたが、特に日本人情報はつかめませんでした。

楽しみにしていた元軽井沢聖書学院のミセス・タイガート訪問は、帰る前日の土曜日になりました。忠信のところから二時間半ほど離れたフランクリンです。(州内には四つも同じ名前の町があります) 88歳になられたという夫人は、お元気でたいそう喜んで迎えて下さいました。私がお目にかかったのは何と51年も前のことです。当時私は、お下げ髪の高校生でした。その後、両親が召されて、軽井沢での「家族」は存在できなくなりましたのに、家族のようにしてくださる土屋文子さんがいて下さったため、私はずうっと軽井沢っ子の気分でいました。そこへ、忠信の希望がかないペンステートに受け入れられたことと、5月にミシガン州に招かれたとき、ミセス・ネットランドに勧めていただいたことが続いて、今回のうれしい再会になったことを思い感謝しました。 タイガートさんは百人泊まれるというお城を持っておられ、いまはライフ・ミニストリーという伝道団体の働きをしていらっしゃるということでした。ここは貸し出しもしているということでしたから、いつか、何かの計画ができたら、と思わされました。そこで、お会いした軽井沢からお嫁に来ている(旧姓中田)いづみさんから、ピッツバーグに間もなく日本人教会が始められるらしいというニュースを耳にしました。いづみさんはピッツバーグに住んでおられます。次の機会にでも訪ねてみたいものです。

 最後の日は、礼拝が終わって、10時50分に出発しました。でも、忠信と一緒の時のように一日で帰るのは無理があるので、途中、バージニア州のニュー・マーケットという南北戦争の戦場となった歴史的な町に一泊することにしました。はじめ、温泉地のホワイト・サルファーを考えましたが、調べてみると、さまざまなサービスがセットになっているホテルしかないようで、しかも、日本円だと5万円くらいするとのことで、バカバカしくなってやめました。

ニューマーケットで昔の面影を偲ばせる町並みや風景に満足し、翌朝、アパラチア山脈のブルー・リッジ連山にあるシェナンド−国立公園の中を走るスカイライン・ドライブウェイに入りました。全長105マイル(約170キロ)時速35マイル(56キロ)で走ると3時間の距離です。工事は1931年から8年かかり、その当時で、1マイル(1.6キロ)当たり5万j(約600万円)かかったと言います。私達は、全部ではなく三分の一くらい走っただけですが、途中要所々々には、立派な展望台ができていて、それはそれは、すばらしい眺めでした。そして、極めつけのオマケとして、60センチくらいの熊の子供に出会いました。ゆっくりと前を横断して行く真っ黒なかわいいようすは今も目にやきついています。あどけない顔は、小学校の1・2年生というところでしょうか。そのすぐあと、道ばたに佇んでいたのは鹿の子供でした。この方はもう少し大きく5・6年生と言う感じでした。住み慣れた人によれば、アトランタでも鹿は珍しくなく、当たればこちらの方がけがをする危険なものだそうです。青森に引っ越したばかりの頃大雪を喜んで、「雪は大変なものなのですよ」と注意されたことをふと思い出しました。鹿に出会ったと喜んでいるようでは、まだまだ、新米のアメリカ生活者ということです。でも、かなり自由に行動ができるようになり、これからが楽しみです。

 8月10日には、ウエストミンスター日本人教会のファミリーキャンプに行きました。今年は25周年という区切りの年。この教会で信仰をもち、牧師になっている長井先生が講師、最初からの協力者、中垣(本田)路津子さんが賛美のために来てくださいました。路津子さんとはこの教会を買うときの資金集めのコンサートで日本のあちらこちらをご一緒させていただいたことがあり、懐かしい再会でした。バプテスト日本語教会のボートライト先生がお留守なので礼拝の説教を頼まれていましたので、おわりまでいることができなくて残念でした。

 31日から2日までは、バプテスト日本語教会の修養会でした。ダディも私も教会学校(大人の)で奉仕をさせていただきましたが、若い方々の成長する姿を見られることはとてもうれしいことです。個人的にかかわりを深くする方も増えて、責任も感じますが、新しい子供たちを与えられたようなうれしい気分でもあります。

 ところで、今回ステカレへ行く直前、ダディの学校のことで問題が起こりました。詳しく書くスペースがなくなりましたが、全く考えてもいなかったことでしたが、アトランタ・バイブル・カレッジに転校することになりました。授業は火曜と木曜の夜だけで、学費は今までの半分になりました。10年前にできた学校で、200012月から留学生を受け入れることが移民局に認められたのだそうです。私達にとっては、本当にありがたいことです。忠信の引越しを待って永住ビザ申請の書類も無事に提出しました。後は、待つだけです。忠信は一年くらいかかると言われたそうですが、同じようなケースで出した方の話だと三ヶ月くらいだろうとのことです。法律が変わって、「国内待機」も許されるようになったとかです。ダディの「留学生」生活もあと少しで「解放」になるでしょう。どうぞ、お元気で。御祝福を祈りつつ。   

郁子

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