アトランタ発第24便
2003・1・5
主は、あなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火の中、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。
旧約聖書 申命記1章33節
新年明けましておめでとうございます。
皆々様、良いお正月をお迎えのことと存じます。どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。
日本は雪のお正月だったようですね。こちらは一度だけ「アイスになる」という予報が出ましたものの、たいしたことはなく、時々寒い日がありますが、おおむね過ごしやすい陽気の日が多いように思います。やはり、「南部」なんでしょうね。すでに木の芽はふくらんでいますし、足元の雑草は春の顔をしています。
今日は新年最初の日曜日で、二つの教会で礼拝をしてきました。アメリカ人のニューホープ教会も12月中は、コンテンポラリーの礼拝とトラディショナルの礼拝が合同で10時半からになっていましたので、私たちは「礼拝のはしご」をすることができず、もっぱら日本人教会の方に励みました。今日は久しぶりに早朝礼拝に戻ったわけです。新年最初といっても、こちらの人には普通の日なので、いつも通りのラフなスタイルでしたが、続いて行ったノークロスの日本人教会の方はさすがに日本人、和服の晴れ着姿の方も大ぜいおられ、ボートライト先生ご夫妻も着物で登場されました。日本舞踊を教えている方が、みんなの着付けを手伝ってくださったそうです。
ところで、昨年最後の日曜日(29日)は、ニューホープ教会の礼拝でダディが説教を頼まれました。1月27日、ペンテコステ(5月19日)についで三回目の御用でした。前二回は圭三さんに通訳をしてもらい、今回はちょうど忠信が来ているときでしたので、忠信に通訳をしてもらいました。頼子の奏楽もあり、家族でご奉仕ができ感謝でした。
クリスマスの行事は、6日の我が家の家庭集会から始まりましたが、次の7日には聖学院のクリスマスに出席しました。少ない子供たちですが、先生たちの多くの方がウェストミンスター教会に来ておられて、全員出演のページェントの練習に一生懸命打ち込んでおられましたので、とても上手で、立派な仕上がりになっていました。あらためて子供たちのせりふや歌声を聞き、大人とは違うすばらしい感動を味わうことができました。
13日には、ノークロスの教会の伝道会を兼ねたファミリークリスマスでしたが、当地で三種類発行されている日本語の情報紙に宣伝もしてあり、用意された食べ物が足りるかどうかと心配されるベティ先生の姿に、かつての自分の姿をみる思いがしました。22日のウェストミンスター教会のクリスマス礼拝では洗礼式もありました。三人の若い方々がそれぞれの道を通ってここまでこられた事を思って深い感謝をささげました。見守る「母の喜びの涙」が印象的でした。午後の祝会での青年会のページェントは、オペレッタ仕立てでしたが、いろいろな都合で男の子が「マリヤ」さんをやったり、愛犬のダックスくんに白いモコモコの服を着せて引っ張っている羊飼いが出たり、爆笑続きでした。その日の夜はノークロス教会のキャンドルライトサービスに駆けつけ、24日にはウェストミンスター教会のキャンドルライトサービスにと忙しいことでした。24日の夜は恒義さんが考えた演出での音楽いっぱいのプログラムでしたが、ダディが三つのショートメッセージをさせて頂きました。ピアノでお弟子さんの女の子とすばらしい連弾を聞かせてくれたのは、ピアノ教師のYさんです。我が家に来て、洗礼を受けると教会で「奉仕」しなければならないことになりそうで、それがいやだと受洗をためらう自分がまたいやで苦しんでいたYさんが、夏に洗礼を受けられ、今は教会での「奉仕」が楽しくてたまらないとのことです。お母さんの変化と同時に14歳の息子さんも変わってきて、この夜、お母さんたちと一緒にバスーンを聞かせてくれました。忠信一家も一緒に参加しましたが、久しぶりに武田家の次女あゆみちゃんもニューヨークから帰って来ていましたので、いとこ同士楽しそうでした。
世の中が楽しい時に、悲しさを感じる人もおります。6月に召された友子さんのご主人クリフおじさんがそうでした。一人きりになっていますので、頼子が毎週木曜日には夕食を一緒に食べて遅く帰って来ることにしていましたが、24日はクリスマスイブというので、友子さんがよく作っていたという春巻きとチャーハン、中華スープなどをあちらのキッチンで作り、圭三さんも行って、おじさんの好きなケーキでクリスマスのお祝いを一緒にしました。ニューイヤーイブといわれる大晦日のカウントダウンも、友子さんが亡くなってはじめてのことなので、度々電話をしてくれたり、たべものを届けてくれたりと、おじさんのことを気にかけてくれている方々に声をかけて、「友子さんがいた時のように賑やかな」年越しを企画しました。何しろ南部なまりの英語ですから、気にしていても思うように会話できないでいた方々が、喜んで集まってくれました。大きなピザ(おじさんの好物)を注文し、後はみんなに持ち寄ってもらうことにしました。子供連れは食事がすむと帰りましたが、一人住いの方々はカウントダウンまで付き合ってくれて、頼子が作る「年越しそば」をたべてお開きになりました。私たちは11時頃で失礼して、自宅の方で忠信たちと「おそば」を食べました。「それにしても、女性たちはよくしゃべるなあ」とダディが感心していましたが、男性たちが、テレビでおじさんの大好きなフットボール観戦をしている隣の部屋で「いつものおしゃべり」を続けていたわけです。でも、これが、「友子さんがいた頃」を再現させ、お慰めになったと思っています。
去年は年末に「数の子」が消えて、アトランタでは食べられなかった方が多かったそうですが、今年は良いものが出ていました。毎年、「頼子のオセチ」が作られ、何軒かにおすそ分けをしていましたが、今年は家族からリクエスト注文の出たものだけを作ることにしました。結果、かまぼこ以外は全部手作りのものだけでした。ダディの注文で久しぶりにフーガデンも作りました。日本から持ってきた「もちっこ」でお餅もつき、お雑煮の用意もしましたが、マイケルたちはきな粉をつけたのが大好きで、キッチンバサミで小さく切って食べていました。学校の正月休みは元旦だけだと前に書きましたが、一日休ませることにして、2日の朝出発すると忠信が決めましたので、お正月のお祝いを元旦にすることができました。マイケルもデービッドもお年玉をもらうために「明けましておめでとうございます」の日本語だけはしっかり覚えています。2日の朝7時、まだ暗い内に出発した忠信たちは、夜の10時に「今無事到着」の電話をくれてほっとしました。あちらは雪ですが、車のタイヤは夏と同じだそうです。道路の除雪は徹底しているようです。これからはスキーをやろうかな、とのことでした。
その日の私と言えば、次の日の家庭集会に備えて掃除と買出し、料理に奮戦しました。献立はオセチを中心にポテトサラダとマーボーなすを追加することにしました。デザートにはチーズケーキを焼いて、ミカンと一緒に出すことにしました。
さて、当日、オセチのお重を開くと皆さんの歓声が上がり、賑やかな会が始まりました。その情景の一部を書いて見ましょう。みんなの目が栗キントンの栗に集まったのを見たエミさんが「待って!若い人は後、先の短い人からよ。」(エミさんは教会で最年長と言っていますが、私よりチョット上)すかさず「おことばを返すようですが、わたし、妊婦なんですが」とひろみさん。次はミカンを抱え込んで来たやすよさん、一応は隣の人にあげるものの、自分のを食べ終わると取り返して食べるので大笑い。エミさんはお姉さま直伝の「毛生えに効くトニック」を作るからと言って、ミカンを手にした人にしっかり注目していて、皮を剥きおわると「それ頂戴」と貰い受けるのですが、そのすばやいこと、みんな裸のミカンを食べているようでした。ちなみに、わたしもそのスペシャルトニックを作りたいと思って教えてもらいました。作り方は簡単で、お酒の中に新しいミカンの皮をたっぷり入れておくと数日で黄色く色がつく。これを地肌にすり込むようにつけていると、六ヶ月くらいで「フサフサ」になるのだそうです。こちらでは、こういう日本のものに近いミカンが手に入るのはこの時期だけだということなので、一年分のトニックが欲しければセッセとミカンを食べなければならないことになります。これを使って今年の年末にはどうなっていることでしょう。皆様、お試しになりますか?
賑やかな集まりですが、真面目に勉強もし、神様と人に喜ばれるように今年もがんばろうと思いを新にしております。冒頭に掲げた聖書のことばの通り、神様が先頭に立って人生の旅路を導いて下さっていますので、自分中心ではなく、「神様を信頼し、聞き従う」ことに励みたいと思っています。なんと言っても、この8日にはわたしも68歳を迎えます。「神の前に立たされる日」もそんなに遠くはないでしょう。「その日」神様の前で問題となるのは「人間としての罪」です。「罪をきよめて下さる」十字架のイエスさまこそ、わたしの宝です。
2003年、世界の平和と、愛するおひとりおひとりの上に神様の祝福をお祈りします。
郁 子