アトランタ発第27便
2003・5・3
16日間にわたる西海岸の旅行から、28日の夜帰って来ました。同じ国内で、時差も三時間だけのことでたいしたこともないと思うのですが、今回は予想以上に疲れが残り、二日ほど何もできませんでした。歳のせいかとも思いましたが、中途半端な時差のためだろうと忠信に言われ、ちょっと安心しました。やっと回り始めた頭で、2日(金)の家庭集会の準備をしているうちにいつもの調子になって来ました。そして昨晩、いつものメンバーと楽しく歌い、学び、食べ、おしゃべりをし、あらためて無事に帰ってこられたことを感謝しました。
できるだけ旅行を控えるようにと言われている中を出かけましたので、万一のことも考えて大切なものを纏め、後の事も手紙に書いて出かけました。飛行機はガラガラにすいていると言われていたのですが、出かける二日前に飛行機会社から電話で、予定していた便を変更して欲しいと言ってきました。つまり、一つ便を減らして乗客を寄せ集めたわけで、そのため結構混んでいました。これは国内便ですが、日本行きは本当に空いていて横になっていける、と言われています。そして、「経費削減」の徹底ということでしょうが、はじめは「ランチつき」となっていた便では「スナックつき」に変更されました。これは、搭乗ゲートを通って飛行機までの通路の途中に、サンドイッチ・クッキー・ビン入りの水などが入った袋が大きな車付きのボックスに山積みに置いてあり、欲しい人は自分で取って持ち込むのです。会社の人員削減も進んでいる位なので当然かもしれません。(飲み物の機内サービスはあります)
12日朝、頼子に送ってもらって久しぶりの飛行場へ。何かトラブルがあって、搭乗開始が遅れ、始まっても中断され、結局30分以上の遅発になりました。サンフランシスコ空港には、去年の夏JCFN(青年の集まり)でお知り合いになったサクラメント(サンフランシスコから東北約90マイル)第一バプテスト教会の荒井先生がお義兄様と一緒に迎えに来ていてくださいました。夕食には先生のもう一つのお仕事である「みくにレストラン」の2号店に連れて行っていただきました。大きなおすし屋さんです。早い時間には混んでいて席が取れないということで8時半にホテルまで迎えに来てくださいましたので、それまで一休みすることができ、時差に備えられたようです。アトランタ時間では真夜中12時ころの夕食でした。今では息子さんたちがしっかりお店をやっておられて、アメリカ人のお客様にも喜ばれるようにという工夫の数々も実を結んでいるようでした。食材は新鮮、300種ものメニューがあるとのことで、本当に日本で見たこともない形の「おすし」もあって、中の幾つかはさっそく私も真似をしたくなるようなものでした。さて、翌日は、朝の礼拝でダディが説教の御用をし、美味しいお昼を頂いて、午後、ダディはこの地区の5教会が集まる「平原部会」春の修養会でお話を、私は隣の部屋で若いお母様方(子供つき)のためにお話をしました。ここでは私の「子育て」の本を読んでいてくださる方が多く、楽しい集会でした。
四時過ぎには、同窓の西村光子さんが迎えに来てくださり、ここを後にし、サンフランシスコに近いフレモントに行きました。ここで光子さんは大学時代のお友達、桑島けい子さんと二人で日本人のための老人ホームをやっておられます。一度伺いたいという私の願いがかなっての訪問でした。翌朝早くには飛行場に送っていただかなければならないという、短時間のお交わりでしたが、16年前、老人学を学び終わって帰国する前にとアメリカの施設をまわっていた時、日本人一世の方が哀れな生活をしておられるのを見て、使命を感じられた事、祈りの中で奇跡的に事業がおこされた話、そして最近、ついに「最後の一世」の方を御世話し終わったことなどを伺いました。その頃の法律で許される一番小さい規模は八名以内のホームでした。二人だけでできることも考えて五人以内と決めてスタート、途中からベテスダ・ミニストリーの働きも加わったとの事でした。けい子さんとの息もぴったりで、今は、二人のお年寄りを抱えつつ、これからを考えておられるということでした。記念写真をとって、次の目的地シアトル(ワシントン州)に向かいました。
ここでは、ユーオディアの働きをしている同窓の友人、的場明美さんの紹介で節子ギブソンさんのお宅に泊めていただきました。お引越ししたばかりの大きなお家で、高台にありますので、食事をしながら海も見えるすてきな景色も楽しませて頂きました。節子さんの話によりますと、シアトルは田舎で、失業者も大変多く、経済的にも苦しい町だということでした。アトランタで6パーセントの税金(消費税)が、8,5パーセントです。食料品は無税(レストランは別)ですが、うっかり忘れた血糖値を計るテスト用品を買いましたら、ちゃんと税金がついていました。アトランタでは「医療品」として食料品と共に無税です。
私には、シアトルの雲は特別近くて美しいと感じられるのですが(自分が天に近い感じで)土地の方にはそれが「圧迫感」と感じられるとかで、自殺者が一番多い町だと聞かされました。
18日、「イチロー」の活躍する球場に近い駅から、アメリカの列車アムトラックで4時間余り南に下って、懐かしいフェーデル先生をオレゴン州セーラムにお訪ねしました。前立腺がんで放射線治療を受けられた先生は、いくらかお年を取られたように見えましたが、奥様と二人、ちっとも変わらない笑顔で私たちを迎えてくださいました。大きなブドウ畑の一角にあるこの土地と家は、次男がくれたものです、と喜んでおられました。大きなイチジクの木、15本のリンゴの木があり、前のお宅にお訪ねした時には、畑で取れた美味しいトマトをご馳走になりましたが、今年もこれから畑仕事もするのだとおっしゃっていました。ちょうどイースターの週でしたので、土曜、日曜と、先生が手伝っておられる中国人の教会に連れて行って頂きました。私にとって、中国語の会衆讃美歌を聞くのは子供の時以来のことでした。私の思い出に残っているのは、私が7歳の時、母の再婚で行くことになった、あの上海の難民収容所にあった江湾(キャンワン)中国基督教会のクリスマス風景です。それは、竹とわらで建てられた粗末な会堂で150人の中国人、十数名の日本人が出席していたクリスマス集会でしたが、今、アメリカの大きな教会堂の中で、中国語の讃美歌を61年ぶりに聞くことができて感無量というところでした。四泊させていただき、ご一緒に働かせていただいた50年前の話に花が咲きました。そして、やがて迎える終末の世のこと、私達の希望についても語り合いました。先生ご夫妻とは今生のお別れのような切ない気持ちでお別れして来ました。
行きのアムトラックは、長距離を寝台車つきで走っているもので、普通の席もゆったりとした巾、リクライニングシートになっていましたが、帰りに乗ったのは、通勤などにも使われるビジネス列車で、シートが狭いだけでなく、食堂車もついていませんでした。線路のトラブルはしばしばあって、行きには、私達が降りたポートランドで、全員降ろされて次の駅まで代行バスで乗客を運んでいましたし、帰りも大分遅れて着きました。何しろ、線路を持っているのはこの会社ではなく、他の貨物列車会社だそうですので(アメリカ開拓時代の話が思い出されます)そちらが優先で、譲らなければならないのだそうです。日本の鉄道とは大分違いますね。
さて、シアトルの駅で首を長くして待っていてくださったのは、私たちがアメリカに越してきてからご主人を天に送られたクラーク夫人、私たちのいう旧姓フィンロウ先生です。シアトルからフェリーに乗って30分、さらにドライブ1時間あまりで「アイランド・レーク」の岸辺に到着。岸辺にある次男クリスの家の脇に車を止めて、一輪車に荷物を載せて、手作りの桟橋の船まで運びます。今、先生が住んでいるのはこの湖の中にあるクラーク島なのです。100メートルあまりでしょうか、手作りの渡し舟で島に上陸です。私は4回目ですが最初の時はまだ岸辺に住んでおられて、カヌーで島を見に行きました。次の時には、もう島の中にちゃんとした家が出来ていました。お兄さんが建てられたそうですが、水道、電気、ガス、電話すべてご主人がご自分で工事されて、普通の生活ができるようになっています。
島の高い木の上には白頭鷲(イーグル)の巣があり、ひながいるようでした。目の前の飛び込みが出来る桟橋では、使っていない木の植木鉢を利用してカナダギース(雁)が卵を温めています。少し横では鴨も卵を抱いています。向こう岸にはつりのピアがあってマスを釣っています。島に住んでいるのはお一人だけなのです。あいにく雨続きのお天気でしたが、暖炉の火を見ながらの三晩、本当に楽しく過ごしました。一日は、仲良しの四人のお年寄りと週一度のホテルでのランチにご一緒したり、すてきな老人施設に住む方にお部屋を見せてもらったりしました。また、アフリカの孤児たちのために働いているクリスの事務所を訪ねて、その祈祷会に出させてもらいました。刻々と入って来る情報を見ながら百人あまりの孤児を迎えているホームの話、400人の学校のことなど伺いました。もっともっと協力者を増やしたいということで、私たちにできる事は何だろうかと宿題を貰ってきた感じです。このクリス夫婦は自分の子供はいないのですが、三人の養子がいます。今回は二番目の9歳の子供だけに会うことが出来ました。黒人の血が入っているのでちぢれている髪の毛の始末が大変なのだと聞きました。
三日だけでは足りない、と名残を惜しんでくださる先生を残してシアトルに戻り、25日には、ワシントン大学の田村先生ご夫妻と楽しい時間を持たせて頂きました。この前に伺ったのはいつだったでしょうか。マウント・レニエに連れて行っていただいたものでしたが、今回も、奥様がこれからはじめようとしておられる聖書を学ぶ会に出させていただき、二人のお子さんのご家族と楽しい夕食の後、日没を見に滝のあるすばらしい所へ連れて行ってくださいました。先生は、アメリカには定年制がなく、自分で決めなければならないから大変だとおっしゃりながら、これからの神様の導きを求めておられました。一泊させていただき、翌朝も、聖書に親しみ、祈る時をご一緒させて頂くことができました。アトランタとシアトルで少々離れていますが、これからも良いお交わりができるように話しあったことでした。的場明美さんの新しいお家も見せていただき、お話を伺い、ご馳走になりました。
28日、節子さんにシアトル空港に送っていただき、帰って来たアトランタはむっと熱い南部の空気を感じましたが、抜けるような青空で、やはりアトランタの空は高いのかなとあらためて思わされました。4日の日曜日には(この手紙、書き始めたのは3日ですが、今日は7日です)ウェストミンスターの教会へ行き、久しぶりに牧実や和子さんと会い、お会いしてきた方々のご様子を報告しました。今日は、間もなく日本に帰国する、ジャイチャン(古川ゆみ代さん)が石塚陽子さんと一緒にきてくれるので、これから「はなずし」を巻こうと思っています。明日は、紀平佐和子さんの頼みで「こんにちはクラブ」のアメリカ人の方々に簡単なものをお見せすることになっていますので、今日は手慣らしというところです。桃の花、春、カタツムリ、サクランボ、チューリップなどが出るように巻いてみようと思っています。
カレンダーを眺めていましたら、次の予定までの間があるので、急なことですが来週早々ペンシルヴェニアの忠信の所へ行く事にしました。子供たちはまだお休みではありませんが、一回だけ週末を入れて計画しました。途中一泊しながら行って、24日のAJCFの集会までには帰る予定です。忠信の所から、3時間ほどでナイヤガラへ行けるそうなので、「向こうにいる間に、華厳の瀧を見に行けないかしら?」と言って大笑いされました。あちらもやっと春らしくなってきたようで、畠の手伝いもできるのではないかと思っています。こちらではもう菜の花、スナックエンドウ、春菊、ふきなど春を味わっています。出かける前にはトマトも植えていこうと思っています。
前便で触れたと思いますが、台湾で療養中だった台湾人の友人陳さんの奥さんが、先週、今恐れられている新型肺炎(SARS)で亡くなられました。後から同じ病室に入ってきた方が、そうだったとの事。長い闘病で体力のない奥さんは、隔離されて三日目に亡くなり、付き添っていた息子さんも隔離されているという知らせだったそうです。大変お気の毒に思いお慰めを祈っています。SARSは、アトランタでも数人罹っているそうです。日本ではまだ一人の患者も出ていないとの事ですが、おからだに気をつけてお過ごしくださいませ。
郁子