アトランタ発第28便
2003・6・5
六月に入りました。つゆの時期なのに台風上陸のニュ−スに驚いています.皆様いかがお過ごしですか。こちらでも二・三箇所でアジサイを見かけました。日本では真っ盛りでしょう。
私たちの五月もいろいろありました。母の日にニューホープ教会(英語)での礼拝を終わって、そのままペンシルヴェニアを目指して出発しました。北へ約1200km、15時間はかかるので中間で一泊します。途中五つの州を通過します。州境を超えるとすぐにウェルカムセンターがあり、そこで、宿の割引クーポンがついたガイドブックを手に入れ、沿線の安い宿を見つけます。この日は工事の渋滞中に事故が重なり、1時間余り日本並のノロノロ運転を経験し、予定より100kmも手前のセイラム(ヴァージニア州)に泊まるはめになりました。それで翌朝は、少し早めに出発し、午後3時に忠信の家に着きました。
家に入ってまずビックリしたのは、デービッドが飼っている2匹の真っ黒なネズミでした。ジャービルというのだそうですが、良く慣れていて(二人ともボーイで、それぞれ名前がついています)、デービッドの手の上でおとなしくしています。デービッドは、毎日学校から帰ると、左手にネズミを持って、宿題をしていました。もっともこの日は、自分が風邪をひいていたので、我慢して触らないでいるという日でした。
この夜マイケルの初めてのコンサートでした。5時半には出かけるというので、私たちも日程を繰り上げて出かけてきたのです。ネクタイを締め、筋の通ったズボンに、黒革の靴と正装した5年生のマイケルは、11歳の紳士に見えました。5年生というのは小学校の最高学年で、先日修学旅行?みたいな遠足もあったそうです。秋からは“マウント・ニタリー・ミドルスクール”という中学校の生徒になります。もっともそこでも6年生、7年生、8年生と呼ばれるそうです。このコンサートも5年生たちのために、クワイヤー、オーケストラ(弦楽器主体)、バンド(管楽器主体)と、それぞれ別の先生に指導され、計画されていました。マイケルはクワイヤーとバンドに出ました。クワイヤーの部から始まりましたが、その2曲目は、驚いたことに日本の唱歌「春が来た」でした。少し編曲されていましたが、日本語で歌っていました。バンドでのマイケルはトランペットを吹いています。忠信がトランペットを始めたのは中学に入ってからでしたが、マイケルの練習に助言したりしているだけでなく、また自分もやろうかな、なんて言っています。ロイヤル・マーチなど五曲をしっかり演奏しました。
翌日、もう一日学校を休んだデービッドは、前に誕生日のプレゼントで貰った料理の本の中から、チョコレート菓子を作ることを思い立ち、バーバたちはその手伝いをしました。デービッドは料理が大好きで、お兄ちゃんの朝ごはんなど作ってやることもあります。ひいおじいちゃんから渡辺家の男性は料理好きですが、見事に遺伝しているようです。「シークレット」作業のため、仕事から帰ってきたママはしばらくキッチンに入れなかったり、ダディも冷蔵庫を開けるのを禁止されて面食らったりがお愛嬌でした。
この週、マイケルは行事予定がいっぱいでした。野球の試合が火曜・水曜・土曜と3回ありました。最初の火曜日の夜は大変寒い日でしたので、デービッドはリンとお留守番でした。リンが持たせてくれたキルトの毛布をかぶっての観戦でした。リトルリーグの一部で、地元の幾つもの企業が専用の球場を作り、ユニホームを提供するなど応援しています。コーチはお父さんたちのボランティアです。特に練習日はなく、試合をしながら教えるのだそうで、監督の指示がとても面白かったです。コーチのほかに忠信などお父さんたちも手助けをしていました。お母さんたちの応援も賑やかで、「グッド・アイ」「グッド・トライ」「グッド・ヘッド」「グッド・ジョブ」などと、多少失敗しても、ほめられているようで、子供たちをみんなで育てている感じが受取れました。試合中ヒラヒラと落ちてくるものがあり、良く見るとタンポポの綿毛でした。野原一面のタンポポで、それがスッカリ綿毛になっていたのです。大差での負け続きだったマイケルのチームが、この日は1点差で初勝利でした。
翌日は、時間ができたからと忠信がランカスターに連れて行ってくれました。旧約聖書にある幕屋の実物大模型の見学ツアーに参加し、また、今でも電気や自動車を使わない生活を続けているアーミッシュの市場などを見物しました。レストランでは、一緒になった人たちと一つのテーブルを囲み、家族のような形で食べる伝統的な食事を楽しみました。町並みを馬車が走り、農地では馬に鋤を引かせているのが見られました。この日も夕方からマイケルの野球の試合があり、両親は中学校の説明会があるというのでジージ・バーバとデービッドで応援に行きました。この試合の途中でマイケルに低血糖がおこりました。二日前、コンサートの途中でもそうでしたが、自分で申し出て、「ぶどう糖を摂る」という大切なことができるのを見、また周りの先生たち大人や子供たちも、病気を持つマイケルの生活を受け入れてくれているのが分かり、むしろ安心しました。この日、デービッドはダグアウトに入っていましたが、マイケルがコーチに何か申し出るのを見るとすぐに「ぶどう糖」の入ったカバンを持って駆けつけ、いつも両親がしているのと同じように世話をしていました。大リーグのボルチモア・オリオールズに糖尿病のジェイソンという選手がおり、試合を見に行ったマイケルは、サインを貰いに行き自分の病気のことを話し、ジェイソン選手もいろいろ励ましてくれたと聞きました。きっとこういうことが子供にとって大きな力になるのではないかとありがたく思います。
木曜日の午後には、陸上競技があり、マイケルは400mリレーの第一走者で出るはずでしたが、雨で中止になりました。土曜日は日中の野球試合でした。選手は9人だけでした。しかし途中から「誕生会」で帰った子供がいて8人だけでプレーしていました。そう言えば前の試合では、10人選手がいて、全員が打席に立ち、守備の時は誰かがベンチに残るという変則的なやり方が認められていました。楽しめばいいという大らかさを感じました。
4月の初めにやっと緑が見えてきたというこの辺りですが、リンが小型の耕運機をレンタルで借りて来て耕した畠に、レタスとほうれん草が芽を出していました。この町はライラックの多い町で、どちらを向いても美しい花が見られました。ペン・ステート(ペンシルヴェニア州立大学の愛称)には農学部もありますので、周辺には農場・牧場も多く、園芸店にはアトランタでは見られないほどの多くの種類の苗が並べられていました。私は去年種をまいて1メートルほどに育った白桃の苗を持って行きましたが、リンがインターネットで買ったという5種類の実がなるように接木をしてあるリンゴの木も植えられていて将来が楽しみだということです。でも、毎日たくさんの鳥が来ているので、収穫は鳥と分け合うことになるでしょう。また、この州はハーシー・チョコレート発祥の地で、チョコレート博物館があるそうです。園芸用に土の表面に置くと保水作用があると言うココア・シェル(カカオ豆の殻)が安く売られていました。アトランタでは見たことがないもので、リンのお勧めで私も買って来ました。チョコレートの匂いをかぎながらの畑仕事も楽しいものです。何日目でしたか、お茶を飲んでいた私たちの目の前を、鹿が悠々と庭を横切って行ってビックリしました。小さいウサギもいましたし、忠信たちは早速、畠の囲いを考えなければと、ここならではの悩みに頭を抱えていました。
日曜日の礼拝後、ダディと私は二人でナイアガラ見物に出かけました。観光地ですからAARPという老人に特典を与える組織のメンバーとして念のために宿を予約しました。きれいな宿でダブルベッドが二つ入った部屋が、日本のカプセルホテルよりも安い44ドルでした。
レインボウ・ブリッジを渡ったカナダ側の方が、景観が良いと言われていますが、今の私たちは、ビザの関係で再入国できないこともあるというので、アメリカ側だけで見物しました。ナイアガラ国立公園は、5月20日のこの日、まだ水仙・チューリップも咲いていながら、八重桜まで咲いていて、春が一気に来ているという様子でした。朝早くに見物に出かけましたが、河がまだ見えない所から空中に温泉の湯けむりのようなものが見えてきました。それが瀧の水しぶきでした。駐車場に車を置き、すごい水量の水が、ゴツゴツの川底を荒々しく幾つもの段差の小さい瀧を作りながら轟音を立てて流れていくほとりを歩きました。瀧には美しい虹がかかっているのが印象的でした。恐ろしいほどの瀧でしたが、船に乗って滝壷の近くまで行き、配られたビニールのカッパが有ったとはいうもののたっぷりと水しぶきを浴び、瀧の水をなめてきました。この光景を最初に見た人はどんなに驚いたことかと思ったり、こんな所に橋をかけた人たちの勇気に感心したりしながら、創造された神様を賛美しました。十分満足してお昼には帰途につきました。5時間と少しというドライブ中の新緑もすばらしいものでした。帰ってみると、アトランタでの集会の予定が延期になったと言うメールが入っていましたので、帰りを一日遅らせることにして、二日ほど庭の草取りを手伝ってきました。間で忠信が子供たちの学校を見物させてくれました。ここは3年・4年・5年の生徒だけの学校で、キンダーガーデンと1年・2年は別の所にあるそうです。ひろい校地に、ゆったりと建てられた平屋の校舎、規模が小さい分、落ち着いた家庭的な雰囲気が漂っていました。
またすぐに来てください、というリンのことばを嬉しく思いながらステート・カレッジの町を出ました。途中には見物したいところがたくさんあるのですが、今回は古い歴史のあるリンゴの町、ウィンチェスター(ヴァージニア州)に寄って見ました。銃の名として記憶にありましたが、最初に青森へ宣教師が伝えたリンゴはこの辺りのものらしいです。大きなリンゴがシンボルになっていました。ワシントン大統領の執務室があった建物は博物館になっています。その周辺の古い町並みを一時間ぐらいブラブラして、この日はもう一つの興味ある町、レキシントンまで行って泊まりました。翌日、この辺りは南北戦争の歴史的なものがたくさん残っており、3〜5日滞在するようにと観光案内にありましたが、それは次の機会ということにし、雨であったこともあり、車で古い町を一回りという程度の見物をしてきました。
実は途中で、ダディが財布を落とすという大ハプニングがありました。休憩に立ち寄ったレストエリアで、トイレを出てから車までほんの10mくらいだったのですが、舗道の横に、口の大きなゴミ箱がありました。一人の男の人がそこにゴミを捨ててトイレの方に歩いていきました。それを見たダディが、急いでゴミ箱を覗いて何か探しだしましたので、ビックリして聞いてみますと、トイレで財布がないのに気付き、途中アメリカでは珍しい有料道路を通った時、料金所で支払いをするため、ズボンの後のポケットから財布を出し、足の間に置いたままにしていたので、車を降りた時に財布を落としたと思い当ったのです。それで車に戻ろうとすると、両手に空き缶などを持った先ほどの人が、この車の脇で腰をかがめて拾ったものが自分の財布に見えたから、ゴミを捨てた後、彼が持っていたら話し掛けようと思っていたけど、彼の手には何もなかったのでこの中に捨てたはずだが、見つからないと言うのです。それを聞いた私は一言お祈りをしてゴミ箱に駆けつけました。思い切って袋を引っ張り出したところ、財布が転がり出たのです。考えてみると奇跡的なことでした。あの人は、ただの「ゴミ」と見たのです。本当に神様の助けがあったと感謝したことでした。
さて、アトランタはさすがに暑く、畠は草でいっぱいになっていました。早速、草取りをし、トマトの支えを立てたり、ナスの定植をしたりしたのですが、そのための土を近くのウォールマート(スーパー)へ買いに行きました。そこで大きな土の袋を車に乗せてくれた若い方が「ぼく東京で生まれました。18歳まで日本にいたので、日本語分かります」と言われたのです。その日はマイケルと言う名前だけ聞き、孫と同じだと言って、「またね」と別れたのですが、何か気になり、翌日もう一度店に出かけました。大きな店ですが、不思議に入り口を入ったところで出会うことができ、聞いて見ますと彼の両親は宣教師で、タイガートさんだと分かりました。彼のお父さんは、昨年ペンシルヴェニアへ行った時、忠信たちと一緒に未亡人を訪問した(ホームページの21便に書き、アルバムNo.6に写真があります)軽井沢聖書学院のタイガートさんの息子です。つまり、マイケルはあのミセス・タイガートの孫に当るわけです。お父さんは癌で亡くなりましたが、お母さんはまだ日本で奉仕していらっしゃいます。お互いにビックリしましたが、日本人の友だちもいないというので、この金曜日、我が家の家庭集会にお誘いしました。詳しくいろいろ聞けるのを楽しみにしています。
店にはスイカの山積みができました。サツマイモの茎、カボチャの葉っぱなど、面白いものが並んでいます。こちらはすっかり夏休みです。どうぞお元気で。
郁 子