アトランタ発第33便
2004・1・10
新年明けましておめでとうございます。年の初めから終わりまで私たちの上に御目を注ぎ、慈しみ、支え、導いてくださる神様の御名を賛美いたします。
それぞれに、すばらしいクリスマスのシーズンをお過ごしになられたことと存じます。私たちは、アドベント(待降節)に入ってから、頼子に「チョコレート付きのアドベントカレンダー」を貰って、子どもなみに一日一日とクリスマスを待つ日々を過ごしました。12月5日の我が家の家庭集会でのクリスマスを皮切りに、14日は、ウェストミンスター教会の礼拝後、急に帰国が決まった川上さんご夫妻(我が家のコンピューターが大変お世話になった)の送別会がありました。お二人とも聖歌隊のメンバーとして、クリスマスを目指して練習を重ねておられたので、「ハレルヤコーラス」で締めくくりました。その夜はノークロス日本語バプテスト教会の「ファミリー・クリスマス」でした。例年、新聞にも広告を出して行なわれる集まりですが、今年は80名くらいの出席者がありました。会堂での礼拝と子供のページェントの後、会場を移して、キャンドルライトサービスと会食でした。ダディはこちらのクワイヤーにも狩り出されたのですが、「先生、一度だけでも練習に出て下さい」と言われ、本当に4,5回あった練習の1回と当日直前のリハーサルのみで参加させて頂きました。こちらの教会はアメリカ人の家族の参加も多く、祝会では、どのテーブルも英語と日本語が賑やかに飛び交っていました。
16日(火)には頼子たちと、私たちの住むグイネット・カウンティー(郡)の文化センターで、グイネット・コラールと言う地区の合唱団(7~80名)のクリスマスコンサートに行きました。数々のクリスマスの曲をしっとりと聞かせてもらいました。間で数曲の讃美歌は、全会衆も立ち上がり、いっしょに歌い、やはりアメリカだなと感じました。
翌朝は、武田の恒義さん、牧実、高橋和子さんと一緒に旅行に出かけるために、7時に家を出て、待ち合わせ場所までダディに送ってもらいました。行く先は、フロリダ半島の先端近くのリタイヤ・ホームで84歳になっておられる、私達の母校、日本クリスチャン・カレッジの創立者、ホーク先生の所です。アルツハイマーのご病状もかなり進んでいると聞いてお見舞の機会をと願っていたものが実現したのでした。途中1時間休憩しましたが、10時間のドライブで南国らしい風景のフォート・マイヤーに着きました。先生は発病後6年になりますが、奥様の手厚いお世話を受けられながら、静かに過ごしておられます。翌日、ホームを訪問し、お昼には、持っていった道具と材料で、「すき焼き」をして喜んで頂きました。午後3時に失礼して帰途につき、陽が落ちる頃まで走って一泊、翌朝9時に再び出発し、夕方アトランタに帰って来ました。考えてみると、47年前、東京・浜田山の学校の寮で知り合った私たちが、今、この広いアメリカで、こんなに近く暮らしているのが不思議な気がします。日頃は顔を合わせても、忙しくてゆっくり話せないのですが、良い機会を与えられ、この往復の時間は心ゆくまでおしゃべりを楽しみました。
21日はウェストミンスター日本人教会のクリスマス礼拝と祝会でした。昼食は例年どおりのチラシ寿司ですが、今年は冷凍でない生の「本マグロ」たっぷりのご馳走でした。いろいろなアトラクションがありましたが、青年会のOHPを使った「紙芝居」は、すばらしいものでした。ぶっつけ本番の男子会の「ハンドベル」は、指揮者に操られて大爆笑の熱演でした。24日のキャンドルライト・サービスともども神様の祝福いっぱいの楽しい交わり会になりました。
その晩、教会から帰ると、わが家には前日の23日の夕方、ペンシルベニアを出発し途中一泊した忠信一家が到着しておりました。今年は圭三さんの仕事が忙しくクリスマスも休めなかったのが残念でしたが、25日の朝は例年通り、聖書の朗読(今年はデービッド)とダディのお祈りの後、ツリーの下に積み上げてあったプレゼントが配られ嬉しい一時をもちました。
2003年最後の日曜日には、忠信たちとウェストミンスターの礼拝に出ました。武田家のあゆみチャンはニューヨークから、ロスののぞみチャンも二人のかわいい子供たちを連れて帰って来ていて、いとこどうしの久しぶりの再会でした。
クリスマスの後、年末だ、と忙しがっているのは日本人だけかもしれません。日本食のお店「トマト」は、私たちの家からは少し離れた所にあるあまり大きくない店です。この時期には、オセチもその材料も並んでいて混雑していました。ここは食料品の他に化粧品・家庭薬・雑貨と古本も扱っており、貸し出しビデオも有ります。見ていると多くの方が買物と同時に10本以上と思えるほどのビデオを借りていかれます。こちらでの「お正月準備風景」といえるでしょう。(日本のテレビを入れてもチャンネルは一つだけですから物足りないわけです)
オセチを作る事で一番大変なのが材料をそろえる買出しです。普段の買物は、近くのグローサリー(アメリカの食料品スーパー)と韓国人の店で済ませますが、数回に一度は少し離れていても「トマト」や中国人のスーパーマーケット、韓国人経営の大きなファーマーズマーケット「倉庫市場」へ出かけます。知り合いからの情報は大切で、思いがけない所で良いものを手に入れることができたりします。今年は「栗の甘露煮」が見つからず、何処にもないという情報でしたが、ある人に韓国人の店にあと少し残っていたと聞き、手に入れました。昆布巻き用の幅の広い昆布は2日がかりで手に入れました。日本のミカンに良く似たものが何種類か出ていますが、倉庫市場で見つけた「サツマ」は、一番日本のものに近いものでした。教会での交わりは、情報交換の場の一つになります。この間の旅行の時も、恒義さんからすき焼き用の肉(霜降り、薄切り)を売っている「いのうえ」と言う小さいお店のことを教えて貰いました。普通にあるのはいわゆる焼肉にする赤みの厚い肉です。また別の方からですが、「カラオケ屋」で、おいしいマグロやたこが買えるということも最近教えていただいてビックリしました。
30日の朝は、「就労許可証」更新で、8時にイミグレーション・オフィスに出頭する日でした。年末でもこちらの社会ではお休みではないので、この時間は出勤ラッシュの時間です。忠信が一緒に行ってくれました。遅刻はできないということで、暗いうちに出かけましたが、思ったより早く着くことができ、オフィス近くのダンキン・ドーナツで朝食をとり、時間調節をする余裕がありました。手続きに何時間かかるか分からないと言われるので、サンドイッチと読み物を持って行ったのですが、事務所が開くまで行列をして少し待ちましたが、始まってみると、何と十分ほどで終わってしまいました。大変ありがたいことでした。
この期間、オセチつくりの他に、マイケルたちが楽しみにしている日本のおかずもできるだけ作ってやろうと心掛けています。餃子、手巻き寿司、コロッケなどはその代表的なものです。特にコロッケはみんなの好物です。今年は70個作ったのですが、翌日に廻ったのは12個で、まだ食べたかった子供たちにはかわいそうなことをしてしまったと思っています。小児糖尿病を抱えているマイケルも大分よく食べるようになり、コロッケを四つ食べたのですが、元気もののデービッドは12個を平らげましたので「僕の3倍食べた」と言っていました。マイケルは12歳ですが、6年生の算数の時間に出された「数字の関係を文章にする」という問題で何と挿絵入り、29ページの物語の本を作りました。二年前に作った「サンダーマンとライティング・ドッグの冒険物語」に続くもので「64と言う数字と戦うサンダーマンとライティング・ドック」という物語です。素数、公約数などが飛び交う戦いですが、私たちがビックリしたのに反して、数学教育の専門家としての忠信は「これだけ時間をかけてしまう事に対して」少々問題ありとしています。でも、マイケルはとにかくお話を作ることが好きなようで、何でもが素材になってしまうらしいのです。将来の大作家かなと私たちを楽しませてくれました。
31日大晦日は朝8時(ハワイは午前3時)から「紅白歌合戦」が始まりました。日本ではその2時間前から始まっているものの録画で、日本では見られない、途中にコマーシャルが入るのです。その夜は、亡くなられた友子さんのご主人クリフおじさんを誘ってみんなで中華料理を食べに行きました。一人残されたおじさんを気遣って、今でも頼子が毎週木曜日には夕食を一緒にするために通っていますが、お元気そうで私たちも安心しました。
帰ってきてから、二つのテレビをつけて、片方では紅白歌合戦の再放送を見、もう一台の方では英語の放送を流しながら年越しそばの準備でした。カウントダウンが近づいた頃から外にも子供たちの声が聞こえ初め、新年になるとあちらこちらで花火が上がりました。裏のテラスに出て次々に打ち上げられる花火を見ながら2004年が良い年になるように願いました。
2日にもう一度オセチを食べて、忠信一家は帰って行きました。次の日はわが家の新年最初の家庭集会でした。4日はノークロス教会の礼拝に出た後、近くのちやさんのお家で10人あまりの交わり会があり、5日はボートライト先生のお家で新年最初の集まりがあると招かれて出かけました。予定が終わったところで風邪をひいて引きこもっています。8日は私の誕生日で69歳になりました。ここまで守られてきたことを神様に感謝し、多くの方々のご愛を心から感謝しています。今年もよろしくお願いします。
郁 子