アトランタ発第35便

2004・3・22

 「春」のつくり主、神様を賛美いたします。

  サクラの「開花宣言」が出始めましたね。上野の山の賑わいが聞こえてくるようです。みなさまもそれぞれの地で、春の喜びを存分にお味わいになっていることと思います。

  二月は「逃げ月」の名のように、アッという間に過ぎてしまいました。でも、私には内容がいっぱい詰まった一月でした。実は、グリーンカード(永住ビザ)の発給がさらに遅れるらしいというので、再入国許可を得て、私一人だけで2月19日から短期間の帰国をしたのです。こちらの病院で指示された幾つかの“検査・検診”を受ける(こちらでは、費用が高いので、「帰国した時受ける」ことで先延ばしにしていました)のと、本人にしかできない事務的な用事をするのが目的でした。なにしろ、短い滞在中にしなければならないことが多く、役所関係でも、病院関係でも、どれだけの日時が必要なのか見当もつきませんでしたので、妹たち以外には、ほとんどどなたにも連絡をせず、時間の余裕があったら・・・・・・ということにして出かけたものでした。幸い妹たちの協力のおかげで、これ以上は考えられないほど、すべてが順調、スムースに片付いて、「おまけ部分」の楽しい時間を思ったよりずっと多く持つことができました。今回は、この短い日本への「旅行記」にしたいと思います。

  日本到着の翌土曜日の朝には、愛川町の里子さんの所へ行き、渡米直前までお世話になった河野先生(旧石川医院の建物で開業されている)に、診察・検査をしていただき、それが終わるとすぐ、おいしい「仙波」のおそばをご馳走になり、東京に帰る途中「しまむら」に寄り、買物メモの第一にある愛用の下着類を買い、厚木で二個所を訪問するという強行軍でした。

  滞日中三回の日曜日の最初、22日には、妹玲子がお世話になっている立川の教会に出席しました。昨年12月にアトランタから帰国された駒嶺さんご一家も一緒に出席してくださり、懐かしい再会を果たしました。その晩は、同窓生の集まり「ロバの会」の本部である韮崎の藤原家(通称「ロバ牧場」)に泊めて頂きました。発車の5時まで、ゆっくり玲子と語り合う時も与えられ感謝なことでした。列車の中で「駅弁」を食べ、夜7時半ごろ韮崎着。二本松から帰ったばかりでお疲れのご夫妻でしたが、一時間余り積もる話に時を忘れ・・・ とにかく休もうと、懐かしいお部屋で熟睡。翌朝、小淵沢での「ロバの会」に出かける前の僅かな時間に、北海道でお世話になった今井さんが訪ねて来て下さいました。今井さんは、中標津教会の役員で、牧場を経営しておられたのですが、今回、そのすべてを売り払って献身され、4月から神学校に入られるとのことです。奥様の康子さんにもお目にかかりたかったのですが、入院中とのことで残念でした。以前から人工透析を続けておられたのですが、雪の中での通院より楽になったと喜 んでおられます。近くでもあり、今井さんが学校の寮に入られた後も、藤原家とのお交わりが続けられるのではないかと、嬉しくご紹介させて頂きました。

  「ロバの会」は、年四回発行の「ロバの耳」の発送作業と、次号の編集会議が看板になっていますが、いつもながらの楽しい集まりでした。小淵沢スパティオもおなじみの宿です。アルツハイマーを病むよね夫人の車椅子を押して必ず出席してくださる田外さんの元気な姿もありました。ご主人の暖かな介護のおかげだと思われますが、お医者様には家での介護は限界だと言われて何年にもなるのに、病状は進んでいないばかりか、良くなっているのではないかと思われるようで一同とっても嬉しく感謝したことでした。集会で遅くなると連絡が入った長野の牧師、正村八重子さんも吹雪の中から駆けつけてくれました。すっかり、弱くなったと言いながら、今も一人で「喜びの泉」の発刊を続けている林トヨさん、目の手術は済ませたけど、足も不自由と言いながらホームレス伝道に励んでいる石井昭子さん、みんな見た所明らかに老人の集まりでありますのに、それぞれが使命として関わっていることを熱く語るところなどは、学生時代と同じ若さを思わせました。日本アルプスも八ヶ岳も前日の雪で真っ白、晴れ渡った青空に映えてすばらしい眺めです。展望レストランでの朝食は夢のようでした。出席できないのに「おみやげ代」をカンパとして送って下さっていた方もあって、暖かい愛のこもったお土産をいただいて甲府の駅で散会。東京に向う中央線から、途中で京王線に乗り換え、府中の駒嶺家に寄って夕食をご馳走になることになっていましたが、帰国した青年たちも来てくれていて嬉しい時となりました。 

  翌25日、今回の主要な目的である書類の提出に中野区役所行きました。何の問題もなく受け入れられました。26日には、もう一つの課題、循環器の検査(心エコー)で、再び愛川町のユニ・クリニックへ。今度は維子も一緒に出かけ、病院の待合室で里子さんとも合流。検査が意外に早く終わり、無理だと思っていた眼科の方も、続けて診ていただけることになり大感謝。全部終わって、里子さんの車で厚木まで出て、今度はおいしいラーメンをご馳走してもらいました。夕食は、維子が一緒に誕生祝をしたいと言って、東京駅近くの夜景のきれいなレストランを予約していました。ピアノでハッピーバースデーを弾いて貰い、おいしいご馳走に舌鼓を打ちながら新しい年を神様が祝福して下さるように祈りました。

  維子の家が本拠地(私達の日本での住所)とは言うものの、チョット寄っては飛び出す有様、この時も翌日からまた、2泊分の荷物を持って、再び厚木・横浜へと出かけました。厚木では仕事がお休みだからと声をかけてくださった、かつての教会員、堀田慶子さんと懐かしい赤い車で大山へドライブ、すっかり大きくなった綾乃ちゃんにも三年ぶりに会うことができました。たくさんおしゃべりをして、夕方泊めていただく小林家(相鉄線「希望が丘」)まで送っていただきました。小林さんも昨年帰国された方で、いつも元気いっぱいの方、日本に帰ってからも、狭い道路の運転を見事にマスターして、介護ワーカーというお仕事に駆け回っておられます。帰国子女ということで、学校の心配もあった拓郎くん、レイちゃんの元気な様子も目にすることができて安心しました。

  翌日は、町田の松浦家で「一麦教会」のメンバーの集まりが計画されていたので、午前中に小林さんと町田の街で買物タイム。ついでに、もうママである「卒園児」藤田万紀子ちゃんの顔が見られないかと喫茶店「ロッセ」に立ち寄りました。あいにく本人は留守でしたが、ご両親と久しぶりの思い出話に花が咲きました。私が保育園勤務をやめてからも、夏になると子どもたちが泊まりに来ては遊んでいましたので楽しい話題がいっぱいあるのです。正午、松浦家ではかつての「一麦家族」が迎えて下さいました。過ぎ去った20年のあゆみが思い出され、唯々お一人お一人のお幸せを願わされました。愛情いっぱいのご馳走、言葉に表わし切れないその後のご生活のいろいろなニュース・・・・・・感無量の一時でした。

  翌朝は早起きをし、維子と一緒に軽井沢の礼拝に出かけました。東京駅八時発、長野新幹線に初めて乗りました。すばらしい乗り心地(トイレの便座が暖かくなっていたのにビックリ)でしたが、中軽井沢は「しなの電鉄」に乗り換えなければならない不便なことになっており、土地の方々の嘆きを思わされました。礼拝の後、暫く土屋文子さんのお宅でおしゃべりを楽しみました。文子さんは83歳になっておられますがお元気で、お話しているとタイムスリップして家に帰ったような気持ちになりました。その夜の宿は、小諸「懐古園」の近くでしたが、維子は中学校の遠足以来だとの事。翌日は軽井沢から新幹線に乗る前に、何十年ぶりかになるという維子と連れだって、思い出の雲場の池、恵みシャレー、テニス・コート、そして父と母を天に見送った「わが生越家」のあったあたりを、吹雪に頬を打たれながら楽しく散策しました。でもわが家のあったあたりはすっかり変わっていて、敷地内を流れていたせせらぎも確認できない有様でした。半世紀経ったわけですから仕方がありませんね。

  雪の軽井沢から帰った翌日、今度は里子さんが用意してくださった湯河原での「観梅と温泉」プログラム。名古屋から下の妹幹子さんも参加してくれました。湯河原駅での待ち合わせには東京駅を3時頃に出ればよいので、朝9時に家を出て、蒲田の「ユザワヤ」、銀座の「教文館」を回り、買ったものは先に維子に持ち帰ってもらいました。さて、「観梅」は暖冬で見ごろを過ぎているのではないかと心配されましたが、どうしてどうして最高の見ごろでした。何年か前にダディと来た時のことも思い出しながら見事な日本の春を堪能させて貰いました。温泉もお料理も・・・・・・日本は本当にすばらしい国だと思いました。

  翌日は三人で愛川に戻り、検査などの結果の受け取り(どの結果も心配ないものでした)も無事に終わり、夜は大好きだった「すし芳」の豪華な「ちらし寿司」でおひなまつりでした。

  翌日は河野医院の休診日でしたので、石川医院時代からの看護婦さん、成子さんも一緒にイタリー料理やさんにおいしいピザを食べに行きました。山深いところにある店ですが、ずいぶん遠くからもお客さんが来ているようでした。成子さんはダディの趣味、「漢字」遊びの理解者で、新しい漢字クロスの本をお土産に頂きました。その晩は中野の家で荷物の整理にかかりました。バイオテロ防止法が施行され、日本の食料品が簡単には送れなくなりました。でも、本人が持ち帰るのは大丈夫なので、何かと欲しいもので結構大荷物になりました。

  最終コースは、誠志会病院(東京・板橋)で、免疫療法を受けておられる岐阜の川村牧師夫人さちさんのお見舞で始まりました。三年前、もう数ヶ月と宣告を受けた難病中の難病(多発性骨髄腫)との戦いの中におられるさちさんですが、良い治療が続けられているようで思ったよりはるかにお元気でした。ついついお見舞であることを忘れて時間を過ごし、次の約束の正午に5分遅れて、お茶の水・OCCの本やさんに着きました。この前の「ロバの会」に体調が悪く欠席された千葉の村松容子さん(マミー)を石井昭子さんとお見舞いに行くことにしたのです。ここは話に聞く「クリスチャン村」です。マミーは幸い、もう元気になっておられて一安心、ご主人の正男さんとも久しぶりにお目にかかることができました。千葉の駅で昭子さんと別れ、隣の稲毛駅で12月に帰国された川上ご夫妻と待ち合わせました。ゆきよ夫人も薬剤師としてお勤めを始めておられますので、一泊させていただくだけの訪問になりました。まだお荷物も完全には解けていないということでしたが、日本の忙しいペースのご生活になっている感じでした。なによりお元気そうで感謝でした。

  翌日、もう一つ訪問しなければと思っていた用件が、前日に電話で片付いてしまいましたので、思いがけず時間ができ、稲毛から乗った電車でまっすぐ鎌倉まで行き、久しぶりの「小町通り」で小さい買物を楽しみました。ここで不思議な出会いがありました。ふと入ったレストランで、30年前、町田の保育園で一緒に働いていた同僚の井上先生に声をかけられたのです。若いお嬢さん先生でしたのに、ご主人と大学3年生のご長女が一緒で、二人とも一瞬言葉もなく、その後はあきれるほどおしゃべりをしました。懐かしいほかの先生方の近況も、何人かの卒園児のその後も伺い、夢のようでした。すばらしい鎌倉散歩になりました。

  最後の日曜日には、58年前、日本に引揚げて来た頃、妹たちと一緒に日曜学校に通った上野の下谷教会に出席しました。建物は新しくなっていましたが、あれこれと昔の様子が思い出され、礼拝後は、楽しく話し合いながら不忍池を回り「東天紅」で食事をしました。このあたり、日暮里から上野、御徒町は私達の中学、高校時代の通学路でした。上野公園の入り口では早咲きのサクラが二本きれいに咲いていて嬉しく思いました。

  ここまでお読みくださった皆様、きっとお疲れになったことでしょう。申し訳ありません。維子をはじめ多くの方の優しい心遣いを受け、おかげで心残りのまったくないすてきな旅行をさせてもらいました。アトランタは「花ナシ」の盛りが過ぎ、本格的なサクラ・モクレンのシーズンになっています。水仙も美しく、チューリップのつぼみも開き始めました。裏庭では初めて咲いた桃の花が散り、新しく仲間入りした梅が、白い小さな花を咲かせました。また、心新たにアトランタでの生活に踏み出しています。次号にまた、新しいニュースを書けると思います。

  どうぞ、皆様お健やかに。

郁 子

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