アトランタ発第41便
2004・11・11
秋も深まって参りました。今年は台風が多く、地震の被害もあり、自然の威力の恐ろしさを様々に見せられた気がいたします。新潟では未だに余震が続いており、どんなにか不安な日々をお過ごしのことかと推察しております。簡単なことばではお慰めにならないと思いますが、苦しみの中にお過ごしの方々に、一日も早く穏やかな日が戻るように祈っております。
さて、今回は大きなお知らせがあります。前便で指紋押捺のための呼び出しが来たことをお知らせしましたが、昨日最終面接が終わり、永住権を取得できることが決定しました。私たちがアメリカで老後の生活をすると決めた時、この「永住権」を取ることが最大の問題でした。これがなければ限られた期間の滞在で出国しなければなりません。多くの方がこれを取ることができないで、方向転換を余儀なくされています。私たちはダディが学生ビザを取ってこちらに来ました。一年余たって、忠信が市民権を取ったのを機会に、私たちの永住権を申請してくれました。それから三ヵ月後には、36ヶ月以内に「永住ビザ」を出すという通知をもらい、就労許可(通称ワーキング・パーミッション)ももらって、「学生ビザ」のままですが、学校に行かなければならないという条件から解放され、楽になりました。しかし、ビザに関する法律はしばしば変更になりますし、ちょっとした問題で引っかかると、完全に門は閉ざされることにもなりかねないので、実際に手にするまでは安心できなかったわけです。「指紋押捺」のため10月12日に出頭するように通知が来ましたので、早ければ年内にグリーンカードも・・・と期待をして前便を書いたものでした。
ところが、それがすんでからと思っていた「最終面接の呼び出し」の通知が続いて来ました。それが昨日、11月10日でした。申請した時にたくさんの書類が既に提出してあるのですが、再度そろえて持参しなければならないものがあり、急いで日本の妹たちに戸籍謄本を取ってもらい、記載事項を英文に翻訳してもらうため領事館に行くなど慌ただしいことでした。面白いと思ったのは翻訳を依頼する時には「原本」でなければならないのですが、提出するのは「コピーである」ということでした。つまり、パスポートにしろ、証明書にしろ、本物は決して手放すべきものではなく、見せたとしても、自分で確保しておかなければならないのです。前にダディが「T‐20」という書類を以前の学校に預けたままにしてあり、次の学校で手続きをする時になって、その学校が休み中で、困ったことがありました。その時にも「絶対に手放してはいけない」と注意されたことを思い出しました。
書類だけでなく、申請から二年も過ぎているので、再度指定された医療機関の予約を取って健康診断を受け、予防注射の証明書を用意しなければなりませんでした。三本の予防注射をされ、ダディは翌日、翌々日と熱を出してしまいました。その他、少し困ったのが、忠信が一緒に行くのだから大丈夫だと思っていたのですが、英語ができない私たちには「家族以外」「弁護士以外」の通訳を連れてくるように、という条件があったことです。家族以外と言われると、圭三さん、頼子、恒義さん、牧實ははずさなければならないわけで、しかも面接時間が朝の9時からで、場所がダウンタウンというのですから、仕事のある方、子供さんのある方にはお願いできないことになります。はたと困りましたが、先日「ことばを楽しむ会」に来て来てさった河野藤子さんが引き受けてくださいました。藤子さんは日本で帝国ホテルに長くお勤めになっていた方で、こちらではガイドのお仕事をしておられます。昨日はご自宅で祈祷会の予定があったのですが、他の方に代っていただいて、まだ暗い中を7時にはここへ来てくださいました。前の日に飛行機で駆けつけ?てくれていた忠信と四人で行きましたが、良い係官に当たり、とても和やかに40分あまりですべてを終わることができました。まず起立して右手を挙げて偽りを言わないという「宣誓」をし、前に提出した書類、今回持参したものを確認し、最後に幾つもの質問に答えました。質問と言っても「警察の厄介になったことがあるか」「麻薬にかかわったことがあるか」「テロの計画にかかわったことがあるか」「ビザ法に違反したことがあるか」など等、絶対に「イエス」と答える人はいないだろうと思われるような質問ばかりで、終わり頃には係官も少し笑いながら・・・という雰囲気でした。少し前に面接を受けた人は、大変横柄な係官でずいぶんいやな思いをされたと聞いていましたので、これも感謝だったと思っています。多くの方が祈っていてくださり、共に喜んでくださって感謝しています。後は、6週間後に通常グリーンカードと呼ばれている「現在はピンク」の永住権カードの到着を待つだけになりました。忠信は今日の飛行機で帰っていきました。
実は10月25日から11月3日まで、私たちはステ・カレの忠信の所に行ってきました。その間、リンに新しく図書館の司書としての仕事が与えられて、11月1日から勤め始めました。2年間も求めていた仕事ですが、家の近くに与えられて感謝しています。ところが、法律で14歳以下の子供は、大人のいない家におけないことになっていますので、放課後の問題がありました。学校にも預かる施設がありますが、幸い隣の奥さんが預かってくださるということになり、これも最善になりました。スクールバスが到着する3時半ころからリンが帰るまでの2時間あまりです。今後、夏休みなど私たちもいくらか手伝えるかと思っています。
3日にステ・カレを発って、フィラデルフィアの近く、ウィルミントン(デラウェア州)という町にある小さい日本人のグループの所によって来ました。オハイオの杉田先生の紹介でしたが、ほんの数人かと思っていましたが十数人の若い婦人たちが集まっていて驚きました。そこは、フィラデルフィアの日本語教会の牧師で韓国人のリー先生が月に2回指導しておられます。私たちはその日、フィラデルフィアのリー先生のお宅に泊めていただきました。夕方、少しだけでも付近の観光をとおっしゃって独立戦争の戦場になった広い草原に連れて行ってくださいました。そこには丸太を組んで作ったバンガロー風の小さな小屋が幾つも残っていましたが、冬の寒さの中で多くの人が犠牲になったということでした。帰ったら、少しアメリカの歴史を勉強してみようかなと思いました。草原には今まで見たことがないほどたくさんの野生の鹿が見られました。その夜、リー先生のお宅には神学校(聖書神学舎)の同窓生だと言われる茨城の鹿島教会の飯田先生も泊まっておられて、食事時は日本の伝道の話に花が咲きました。お二人とも30歳台とお若いので、私たちの話す戦後の日本における宣教活動は「教会史」の勉強会だと喜んで下さいました。本当にあらためて50年は昔なのだと実感させられたことでした。その晩、もう一つ嬉しいことがありました。鹿を見ながら、この近くに以前新潟で伝道していたマクダニエル宣教師が住んでおられるという話になり、私がよく存じ上げている方だと知った先生が電話をかけてくださって、祈祷会が終わってから、9時ごろにご夫妻で駆けつけて来られ、再会の時を持つことができました。高校2年、3年の頃、軽井沢でお目にかかり、私たち生越家の二人は40家族の若い宣教師たちに可愛がってもらいました。母が日本語教師の一人としてその家族の中を回っていましたし、マクダニエル夫妻も母に日本語を習っていました。その後、二十数年前にはパット・フィンロー先生と二人で新潟のマクダニエルさんを訪ね、何日か泊めていただいた事がありました。懐かしい話がいっぱい出てきました。でも、共通の知人の何人かの方々の名前が出た時に「あの方はもう天国に行きました」というニュースを聞き、50年という人生の流れをあらためて思わされ、こうして50年前の思い出を語り合える方々が与えられている事を嬉しく思いました。
5日にアトランタに帰り、翌6日の朝は歯医者さんの予約日でした。実は、8月の半ばから咳に悩まされ続けていたのですが、9月末になって、やっとそれが、薬を変えたためのものである事が分かりました。すぐにその薬を止めましたが、おさまるまでに10日もかかりました。途中で歯も痛くなって、歯医者通いが加わったのですが、咳のおさまるの待って、この日抜いてもらいました。咳をしながら指紋押捺、領事館など動き回っていましたが、でも、他州に出かける予定の入っていない間の事でした。以前、一麦教会の高野翠子さんに「郁子先生は、良い時に熱を出したりされますね」と言われましたが、今回も正にその通りでした。
7日の朝、バーミンガム(アラバマ州)に出かけ、礼拝と、その夜と8日午前に集会を持ち、夕方に帰り、9日に忠信を迎え、昨日が面接という状態でした。その上、昨日は、頼子がお世話させていただいている友子さんのご主人、クリフおじさんが、目の手術を受ける日と重なり、頼子も7時前には出かけ、夜遅く帰って来ました。こちらではその程度の手術は、日帰りですが、薬を塗るなど手助けが必要です。今日は頼子が会社を休めないため、忠信を送り出してから私たちが行ってきました。明日は、フロリダ州のオーランドに出かけます。16日が集会です。17日に帰る予定です。ペンシルベニア、ヴァージニアはすばらしい紅葉でしたが、フロリダはどうでしょうか。駄作を一つ。
両側に にしきの山々 えんえんと 道行くわが身も 染まるここちす
皆さまお元気で。
郁子