アトランタ発第42便

2005・1・8

1月8日、ついに70歳を迎えました。気分はまだまだ若く、「古希」とは、「古は稀だったが、今は当たり前」と思っています。お正月と重なるような誕生日で、しかも学校の始まる日だと文句を言っていた子供時代を思い出します。今は自由に動ける健康を感謝しながら、元気に先を歩いていてくださる先輩たちに負けないようにこれからもがんばろうと思っています。

 年末に起こった大規模な悲しい災害で、当地では、今もあちこちに半旗が掲げられて悲しみをあらわしています。大地震に続く大津波。広い範囲に及ぶ、考えられないような被害の大きさですね。救助・復興の作業のために祈っています。これが日本近海で起きたらと思うとぞっとします。きっといろいろな面で見直し作業がなされることだと思います。

12月に42号を書きたかったのですが、クリスマス便りの発送に追われ、ついにお流れになってしまいました。10月末から11月にかけて旅行が多く、クリスマスには、アトランタの方々に「お久しぶり」と言われる有様でした。9月にせっかくスタートさせた「ことばを楽しむ会」もそのまま続けられず、各自で「自習しましょう」が続いています。それは残念なのですが、でもこれをきっかけに、私もアメリカに来てしばらくは作っていたものの、その後ほとんど2年忘れていた「歌つくり」をまた思い出して楽しんでいます。

12月の第一日曜日には、いつものようにバーミンガム(アラバマ州)の教会へ行きました。当日は、聖餐式の司式を頼まれていましたが、分餐(パンやカップを配る)のためにアメリカ人の本教会の長老夫妻が出席されることが分かり、びっくりしました。教会の規則でそうなっているのだそうです。20人くらいしかメンバーのいない小さな日本人の集会が、4000人の会員を持つとも言われるブライヤーウッド(イバラの冠に由来)長老教会の傘下に支えられていることを実感しました。この教会では、以前牧師のために牧師館を作ったのですが、あまり立派過ぎて当の牧師が住むことを辞退されたため、今はその建物を「カロライン・ハウス」と名づけて、ゲスト・ルームとして、また、小さいパーティーのためなどに使っています。私たちもそこに泊めていただいています。二階にベッドルームが三つあります。メインルームには、キングサイズのベッドがあるのは当然として、立派なジャグジー付のバス・ルームと、シャワー・ルームがあります。もちろん両方にトイレと洗面台が付いています。二人が同時に身支度をするためには二つあると大変便利です。普通の家でもバス・ルームが二つ・三つとありますが、一部屋に二つというのは余り見たことがありません。建物の周りには、手入れが行き届いた英国式のお庭がついていますので朝の散歩を楽しむことができます。もちろんキッチンでは自由に料理もでき、コーヒーをいれて飲むことができます。使った食器は食器洗い機にいれておけば、後はハウスキーパーの方が片付けてくださるようです。でも私たちはアイスボックスに簡単なものを入れて行って、レンジでチン程度の朝食をしています。12月の時は、せっかく用意していただいていたのですが、月曜日の集会が取りやめになったものですから、泊まらないで帰ることにしました。雨が降り出して心配してくださる方もあったのですが、たいしたことはないだろうと走り出しました。ところが途中でひどい吹き降りになり、視界が悪く、一時間近くも余分な時間がかかりました。さすがのダディもいささか参ったようで、やはり悪天候の夜の運転はやめようと話し合ったことでした。

我が家のクリスマス関係の行事は、11日の土曜日から始まりました。頼子と圭三さんが友人たちとのパーティーで出かけるというので、私たちは、近くのちやさんの家で一緒に食事をすることにしました。ちやさんがおすしを取ってくれましたので(といっても受け取りに行くのですが)、いつものメンバー、エミさんと新しい英子さんという方を加えての食事会になりました。英子さんは、以前領事館に勤務していた方ですが、俳優・藤達也(夫人は芦川いずみ)の叔母さんで、私も良く知っている葉山に住んでおられたというので、葉山あたりの話にも時を忘れ、12時近くになりました。

次の週は、いつもの青年の集まり(AJCF)が金曜日にあったのですが、その前後の日が、コンサートとという贅沢な事になりました。土曜日は毎年恒例のアトランタ交響楽団(ASO)のクリスマス・コンサートです。圭三さんが友達のケビンも誘うことにしたのですが、切符の追加購入ができず、別の日にということで二回になったのです。ケビンは日本クリニックの歯科の先生です。私もお世話になった田中先生が日本に帰えられた後に、ロスから来られた日系二世の国吉先生です。私も、今はケビン先生の患者です。ケビンと一緒の木曜日のプログラムは、バッハのマグニフィカートと、メサイヤの一部とハレルヤ・コーラスというものでした。土曜日は、日本へも行った、サウンド・オブ・ミュージックのモデルになったトラップ大佐の曾孫たち「トラップ・チルドレン」がゲスト出演し、終りのほうでは聴衆もいっしょにクリスマスの賛美歌を歌う場面もあり、とても楽しいコンサートでした。

教会のクリスマス礼拝は二つの教会が同じ19日でしたが、ノークロス教会ではファミリー・クリスマスが4時からありましたので、私たちはウェストミンスター教会の礼拝と祝会に出席した後、ノークロス教会に駆けつけ、一日中クリスマスと言うすばらしい日を過ごすことができました。ダディは、両方の聖歌隊のメンバーです。クリスマスイブは、ウエストミンスター教会で、賛美礼拝でしたが、私はちょっとかぜ気味だったので出席を控えました。

例年忠信一家が来てクリスマスを一緒に迎えていたのですが、今年は11月からリンの「お仕事」が入り、お休みの都合がつかず、どうなるかと思いましたが、はじめに一家揃ってインディアナのおばあちゃんの家に行ってクリスマスを祝い、リンは家に戻り、忠信と子供たちだけがアトランタに来るという事になりました。私たちは、25日の夕食は亡くなった友子さんのご主人クリフおじさんと一緒に中華料理店でお祝いをしました。忠信たちは27日の夕食前に到着し、食後に「プレゼントを開く」楽しい時間を持ちました。こういう時間が3回目だということで子供たちにとってはすばらしいクリスマスになったようです。

翌日からはオセチの準備です。近くに新しく韓国人経営のスーパー「Hマート」ができ、かなり日本の食材が入っていて、ほとんどのものが揃うようになって大変助かりました。ニューヨークを中心に展開している大型スーパー「ハナルン」のチェーン店だそうです。

大晦日。夕食は忠信たちも一緒にクリフおじさんの家ですることになり、朝からみんなが大好きなコロッケの準備を始めたところに、リンから大変な電話が入りました。実は、ペンシルベニアで百日咳がはやり、マイケルの学校でも患者が出ました。マイケルも少し咳をしていたので、検査を受けたそうです。医者は、結果が出るまでには時間がかかるので、マイナスだと思われるが念のために、と百日咳の治療薬を出してくれました。症状もひどくはないので、インディアナに行き、こちらにも来たわけです。ところが、今朝(10日もたって)、「検査の結果は百日咳だ」と連絡があったというのです。マイケル自身は薬をのんでいますが、この場合、家族全員が抗生物質をのまなければならないと言い渡されました。その薬をどうして手に入れるかが問題でした。アメリカでは医者が薬局に電話をすれば、処方箋(紙の)がなくても、薬は買えるのです。忠信たち三人の分は、忠信の入っている保険が使える薬局を探し、ペンシルベニアの先生から電話をしてもらわなければなりません。一方私たちは、圭三さんの病院はもう休みになっています。日本クリニックは、午前中だけで診察に行く時間はありません。私たち二人はかかりつけですが、ほかに頼子たちの分はどうしたものか、先生もいろいろ考えて下さって、私たち二人が、1クール五日間の薬を,2クールのむ分を出すように薬局に電話をしてくださり、四人が1クールずつのめることになり一件落着? さて、おじさんの所へ行かない方が良いのではないかと電話をしましたところ、自分はもう2回もやっているし、もしかかったら病院に行けばいいのだから構わないと言われ、予定通り出かけました。頼子と圭三さんはカウントダウンまでおじさんに付き合いましたが、私たちは先に帰って年越しそばを食べ、近所で打ち上げられる花火を見て穏やかな年越しをいたしました。ばたばた騒ぎで、大晦日の午前中には早くも放送される「紅白歌合戦」を見られないほど忙しかったことはご想像のとおりですが、だれも百日咳にはかかりませんでした。(「紅白」は録画しました)

元旦はのんびり家族だけで過ごしましたが、2日は、3日から子供たちの学校が始まるので忠信たちは早朝に出発し、私たちは教会で礼拝とお正月のお祝いを済ませた後、夕方からは我が家でのお正月パーティーでした。子供4人を含めて20人ほどの友人・家族などで、中にはおすしも大好きなグレース・ネットランドやケビンも入っています。もちろん、子供も来るので家中に消毒液をスプレーしました。日本のオセチは大好評でした。

私は5日に今年一回目の歯の治療を済ませ、8日に誕生日を祝ってもらい、9日からはアラバマへ行って、帰って来てからこの42便を仕上げています。

どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。神様のご祝福を祈りつつ。     

郁 子

忠雄と郁子へメールを送る

アトランタアドベンチャーに戻る

日本語玄関に戻る