アトランタ発第44便(日本旅行記3−1)

2005・6・5

 6月1日午後3時頃(日本時間2日午前4時)、飛行機が無事アトランタ空港に到着し、3月9日の出発から85日振りのアトランタに、ホット一息、万感を込めて感謝しました。

 4月11日に左足をいためて以来杖を使っていましたので、成田空港でチェックインの行列に並んでいますと、係りの人が、空いているビジネスクラスの窓口で手続きをしながら、車椅子をご用意しましょうかと聞かれ、一度は断りましたが、出国手続きを終えたところで、出発ゲートが一番遠くだったこともあり、「やはり・・・」ということで車椅子のお世話になりました。一般の搭乗開始より前に、一人が車椅子を押し、もう一人が荷物を持って機内に運んでくださって助かりました。アトランタにも連絡されていたので、車椅子が待っていました。押してくれた黒人の若者は、4年前にアメリカに来たというジャマイカの人でした。広い空港の中を人の流れから離れてすいすいと進んで行きました。大勢の人が並んでいる外国人用入国審査場をよそ目に、既に閉まっていたアメリカ人(居住者)用の通路が開けられました。今回はグリーンカード(永住権ビザ)を持って初めての入国なので、今までと違って簡単だ、と言われていましたが、こんな形の簡単になるとは予想していませんでした。ただ「ローレンスビル(私達の住所)にお帰りなさい」と言われたのが新鮮でした。アトランタ空港では、入国審査が終わると、荷物を受け取って通関手続きをした後、もう一度預けます。そして人間は地下鉄に乗って出口まで行って荷物の到着を待つのです。つまり、あのぐるぐる回る荷物台から二回も荷物を取らなければなりません。今回は二人で4つのスーツケースでしたが、二回ともあのジャマイカの青年が積み下ろしをしてくれましたので、ダディは助かり、本当に感謝なことでした。しばらくして、彼は次の仕事があると、腰を下ろせる所へ私たちを残して去って行きました。

 娘頼子の出迎えを受けて、外に出て思わず震え上がりました。何とアトランタは雨が降っていて寒かったのです。6月のアトランタが寒い!というのは本当にびっくりすることです。もう夏だと思っていたのに・・・ 今年はこんな天気が続いているそうです。

 ところで帰国後すぐの予定だった3日と5日の集会がそれぞれ10日と26日に延期になったため、数日はのんびりと休養することができ、11日に予定しているガレージセールの後、12日からペンシルベニアの忠信の所へ行って、24日に帰って来ようと思っています。

 さて、すばらしかった日本旅行について、とても一回ではお話できないと思います。お目にかかり、お世話になったあの方・この方を、記憶をたどり思い出しながら、感謝の思いをもって二、三回に分けて書いてみようと思います。

3月10日、日本に着いてまず、大勢の方がとんがりマスクをしていることに気がつきました。花粉症のためだと分かりましたが、日本の四角いマスクは変わったのだなと思いました。そして、手にするお札がみんなピンピンの新札であることにびっくりしました。偽札事件が続いたからでしょう。翌日、一麦教会の会員だった高野翠子さんが貸してくださるマーチ1200を、ニッサン秦野営業所(神奈川県)に受け取りに行きました。そこで出会った旅行中の友となる車は、淡いブルー系のかわいい新車同然(2年前に購入して、3400キロほど走行)のもので、今人気の湘南ナンバー、しかも車屋さんが「良い番号が取れました」と言うのは、41−22(よい夫婦)でした。これで日本めぐりの旅を始めました。各地で目を引き、「ひと言」いただいたのはご想像通りです。その日、もう一つ「ケイタイ電話」の準備をいたしました。以前から成田空港で借りられると聞いていたのでそのつもりでしたが、それがとても高く、短期ならともかく、三月近くも使うのには不適当と分かりましたので、普通に買うことにしました。機械そのものは何と「一円」だとか。‘メールができます’‘カメラも使えます’と言われ、何も付いてない簡単なものをと願ったのですが、どうやら、そういうものがついた契約の方が安くなっているらしく、難しいものと付き合うことになりました。いくつかの失敗をしながら、それでもこのケイタイが大切な旅行の同行者となりました。少し余裕ができてから、いたずらにカメラを使ってみたものの、見る方法が分からず、やっと5月になって駒嶺家に泊まった時、高校生の未生ちゃんに教えてもらい見られるようになりました。

日本到着の翌日の仕事はまだありました。ちょうど日本に会議で来ていた忠信と、この日の夕食だけが一緒になるチャンスだったので、新宿で待ち合わせをしたのです。久しぶりに日本のラッシュを味わい、ハラハラしましたが無事合流。アメリカではなかなか会えない距離に住んでいますので久しぶり・・・の時間を楽しみました。そして、8時前には新宿の「オアシス(キリスト教書店)」の閉店後持たれている、JCFNの「帰国者祈祷会」に駆け込みました。そこでは、喫茶店伝道を夢にしている姉妹と東南アジアへの宣教師の夢を持つ姉妹の二人の後輩学生と楽しい時を持ちました。時差を全く感じる暇も無い一日でスタートを切りました。

翌12日土曜日の午後は、市川市(千葉県)のチャペル・オブ・アドレーションを借りて持たれているJCFNの帰国者上野集会に出席。アトランタから帰ったジャイちゃん(古川ゆみ代さん)がリーダーをしていました。若い人たちが、がんばって自分の道を開いていく姿を見るのは嬉しいもので、つい応援に力が入ります。集会後、西に向かって出発。浜松市で仮泊し、翌朝、川村牧師夫人さちさんのお見舞いをかねて、同盟福音・岐阜教会の礼拝に出席、思ったよりお元気そうなさちさんのおもてなしを受け、夕食は松井敏子さん(我が家の婿殿・圭三さんのお母さん)を交えて会食、一泊させていただきました。14日朝、目にしたのは銀世界。大雪ではないのですぐ解けるでしょうとゆっくり出発。南下して、私の本を出してくださったサマリヤ社(知多半島中央教会出版部)の向井牧師を訪問。先生ご夫妻に初めてお目にかかり、昼食をご馳走になってから、用意されていた本100冊を車に積み込み東上、東京・中野の妹の所に戻って荷物の整理をし、本格的な長期移動の準備がオーケーになりした。

まず、長年の住みかであった愛川町(神奈川県)に行き、ダディの妹里子さんの所でゆっくりさせてもらいました。楽しい夕食会も準備されていて、アメリカ生活4年を忘れるようでした。かかりつけであった河野先生による私の健康チェックも異常なく、日本滞在中の薬を出していただきました。ダディの方も予約してあった心臓の検査(心エコー・心電図等)を受けましたが問題なしで感謝でした。私はちょっと足が変に感じられたので、間で一日東京に戻り、妹たちと一緒にお昼をいただき、高野整形外科で診察を受け、レントゲンを撮ったりしましたが、特に心配も無いとのことで、予定通りに日程を進めていったのですが、この左足が4月11日の朝、小諸で激しい痛みを感じると同時にダメになってしまったのです。10日に長野福音教会の礼拝を済ませ、翌日11時半に集合の「ロバの会」までの時間を石井昭子さん、高橋省子さんとのんびり信州の春を楽しんでいた時でした。泊まっていた二階の部屋からやっとの思いで下までおり、お世話くださった森さんの家にあったステッキをもらって何とか動き出し、軽井沢のサンセット・ポイントまで行ったのですが、先を考えるとこのままで我慢できることではないと、集合時間前に軽井沢病院に飛び込みました。偶然とはいえ軽井沢病院は父も母もお世話になったところです。50年前とは変わって立派な病院になっていました。診察(足・腰のレントゲン撮影)の結果、原因はMRIをとって見なければ分からないが(その後それもとったのに分かりませんでした)多分坐骨神経痛から来るものだろうと思う。とにかくこの痛みを取るために、これで劇的に治る人もあるブロック注射をしましょう、ということで尾骶骨のところに大きな注射をし、痛み止めの内服薬をもらいました。幸い激しい痛みはおさまったのですが、その時から杖と同行旅行になりました。だんだん快方に向かっていると思います。   

話を戻します。整形外科で受診して一泊し、次の19日、厚木の福音自由の教会を会場に行われているJCFNの帰国者・神奈川集会でダディと合流。ここでお世話をしてくださっているアトランタから帰国した小林ママ(孝子さん)とは久しぶりの再会でした。集会後、翌日の礼拝のため、いくらかでも日立に近い所で泊まるつもりで出かけましたが、結局11時頃日立に着いて、駅の近くで「東横イン」というビジネスホテルを見つけて入りました。全国展開しているこのホテルとの出会いは有難いことでした。出発前から、日本ではホテルでも「お一人様??円」と言われることが多いので、ビジネスホテルの安い所を探そう考えてはいたのですが、東横インはツインが二人で八千円程度、ロビーに無料のPCがあり、PCを持っていれば各室でLANが使え、コインランドリーもあります。朝食はおにぎり、味噌汁、漬け物とコーヒーが無料サービスです。おまけに日曜・祝日は、インターネットで予約した老人夫婦は五千円と少しの「定年感謝祭」というサービスもあり大ファンになり、その後度々利用しました。

兄弟団日立教会(ヒューストンから帰国された佐藤恵一牧師)での礼拝とランチの交わりの後、元ペルー宣教師で同じ日立市の保守バプテスト教会の牧師になられた田口先生ご夫妻を訪ね、泊めていただきました。その夜、話し合ううちに、先生たちも、全国巡回中に東横インを利用されたそうで、「あれは良い」と意気投合しました。21日は名残を惜しむお二人に誘われて、水戸の偕楽園で観梅をし、芝生に座って焼きイカやお団子を味わい、日本の春を楽しみました。おまけに園内を巡回していた黄門様の扮装をした一行と一緒に写真を撮る一齣もありました。

その晩は忠信一家が10ヶ月ほど滞在した筑波市(茨城県)に一泊、孫たちのために懐かしい学校風景などカメラに収めお土産にすることにしました。ここで泊まったホテルの駐車場は平面式(多くのホテルは回転式立体駐車場なので入口でモタモタできません)でしたので、荷物の整理ができました。旅を重ねるうちにだんだん賢くなったと思うのですが、大きなトランクは積んだまま、必要なものだけ取り出して泊まるようになりました。でも、時々整理しないとメチャクチャになってしまいます。今日はこの辺までにして続きはすぐ書くことにいたします。こんな話でも皆様に何か役立つことがあればと願っています。お元気で。    

郁子

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