アトランタ発第45便(日本旅行記3−2)

2005・6・11

3月22日、清野勝男子先生にお願いして、土浦めぐみ教会(茨城県)でダディの両親の記念会をしました。父は88年、母は97年に天国に帰りましたが、私たちがアメリカに移る時、この「ピスガ」と名付けられたチャペルの納骨堂に入れて頂いたのです。家族とともに天を思うひと時を持つことができ感謝でした。記念会の後、すぐ隣の八郷町に住んでいる中村家に伺いました。夫人のマサさんが16歳の頃、五所川原教会(青森県)で出会って以来の長い長いお付き合いです。もうすぐお孫さんが生まれるということでした。翌日は昼頃には仙台を通過したいので、早起きをしてマサさんが作ってくださったお弁当を持って早朝に出発。途中海岸線を走り日本の風景を楽しみました。塩釜バプテスト教会(宮城県)に大友先生を訪問し、留学中のご子息一家のご様子や、日本人伝道の状況をお話しました。夕方には仙台市内に戻り、昔牧実たちが奉仕していた栄光教会へ佐藤強先生ご夫妻を訪問。お幸せそうな奥様の手料理をご馳走になり、祈祷会に列しました。次の日も早起きで出発。幸い順調に東京に入り、皇居の半蔵門近くにある「大學眼鏡研究所」に寄って眼鏡を注文(ここのメガネは遠近の幅が広く、便利で他に代えられないのです)して、愛川町に戻りました。中一日休んで、26日は東京・阿佐ヶ谷の久遠キリスト教会を会場に開かれている帰国者のJCFN関東集会に出席しました。

翌27日はイースターです。午前は、高橋和子さんの宣教活動の母体「支える会」の事務局のある東京・町田市の松見が丘キリスト教会(松元保羅牧師)に出席しました。ここで、一年前に帰国された駒嶺さんご一家四人にお会いすることができました。超未熟児で生まれたマナちゃんがすっかり大きくなり、かわいいしぐさの一つ一つがみんなを幸せにしていました。報告の中で、松元先生が部会について説明をなさっている時、「オワリ?」とマナちゃんの一声、先生も「ハイハイ、終わりますよ。」と終わられました。礼拝後、お二人の方(正確には一人と一家族)の送別会がありましたのでその席にも加わりました。午後3時からは、同じ町田市の町田成瀬礼拝所での礼拝です。駒嶺一家も一緒に移動しました。ここは、元一麦教会員であった松浦さんご夫妻がご自宅を開いて、横浜ゴスペルハウスの伝道所として、通信教育の神学校で学びながら地域の伝道に励んでおられるもので、古庄英司牧師に牧されて、よい実が結ばれている様子で大変嬉しく思いました。元一麦教会のメンバーだった高野翠子さん、高橋よしみさん、間さんご一家も出席されました。大学生になった間家の愛衣子ちゃんにはびっくり、大きくなっているのに思わずイイコ、イイコをしてしまいました。お姉さんの多恵子ちゃんはすっかり素敵なレディーになっていて重ね重ねびっくりしました。そして川崎市からお出でくださった加藤さんご夫妻と理恵ちゃんも加えて、都合のつく方々と会食、いろいろお話しすることができて楽しい一時でした。松浦さんがあまり遅くならないようにと気遣ってくださり、8時頃には西に向かって出発。11時頃清水市(静岡県)のホテルに着き、翌朝青森県小湊で40年前に授洗した成田典子さんを訪問。20年ほど前に清水に移って、忠実にお母さまのお世話をしながらご自分の務めを大切に生きておられるお姿に感心し、励まされました。次は豊橋市(愛知県)で、いつも私たちのロバの会を励ましてくださる先輩の森川先生ご夫妻訪問です。豊橋ホサナ教会を引退されても、あちこちの教会に招かれる昌芳先生は前より元気なご様子、稔子夫人は酸素の助けで熟睡できるとのことでしたが、お話の間は酸素なしでおられました。先生たちは父生越実造に教えてもらったことがあるとかで、古い話で昔を偲んだひと時でした。そこから岡崎市で愛宕山教会の布施恒夫先生ご夫妻を訪ねるつもりでしたが、住所を間違えて書き写していたため、矢作教会に着いてしまい、布施先生とは電話でお話しただけで、夕闇が迫っているのでそのまま車を進め、彦根(滋賀県)まで行って一泊。翌日、日本三景でまだ見たことのない天橋立(京都府)を観光し、続いてダディの祖父加賀種二が建設に深く関わったという山陰本線の「餘部鉄橋」(兵庫県)を見に行きました。近く新しいものに換わることが決まったというので、親戚たちが見に行った話を聞いたからです。ダディの母は、この工事中に米子(鳥取県)の鉄道官舎で生まれたのだそうですから、90年以上も前に、こんなに大きく、高い鉄橋をよくも作ったものと感心したことでした。翌朝、松江市(島根県)まで行きたかったので、その日は皆生温泉(鳥取県)に泊まりました。30日、約束の9時半より15分も早く松江の駅に着きましたが、お相手のロバ仲間の同級生松尾美智枝さんも早く着いていて懐かしい再会の時を持ちました。なかなか関東までは出かけられないという美智枝さんが、ロバの集まりのために、ここだけでしか売っていないという「わかめのお菓子」(とてもおいしく好評でした)をお土産にくださいました。それを積んで中国山地を抜け、関門橋を渡り九州に入りました。夜遅く博多(福岡市)にたどり着き、東横インに入りました。その頃から少し風邪気味でしたので、翌朝ホテルの近くの医院で受診、十分にお薬をいただくことができました。午後から、ダディが中学1年の時フルートを習った先生(夫人は父の秘書だった方)をお訪ねし、大変喜ばれました。

4月最初の朝、一昨年夏アトランタから帰国した石塚陽子さんが、車で大宰府を案内して下さいました。静かなたたずまいのお店でおいしいお豆腐料理をいただき、その晩お世話になる福岡めぐみ教会まで、車で先導して案内して下さり大変助かりました。入江先生の三人の子どもさんたちにも会うことができました。夜のバイブルスタディーに加わり、教会のすぐ前にあるマンションの上西さんのお宅に泊めていただきました。10時過ぎ、震度4の地震がありびっくりしました。福岡沖地震の余震でした。あの地震は礼拝中でしたが、無事に守られ、午後トラクト配布も予定通りに行ったとのことでした。翌日、早天祈祷会でこの教会の原動力を感じました。朝食後出発、午後佐世保福音教会(長崎県)に着きました。松尾純一郎先生ご家族と久しぶりに再会、暖かな交わりの時を持ちました。翌朝礼拝で、ダディの説教直前に、純一郎先生がダディとのデュエットを提案され特別賛美となりました。礼拝後、教会の皆様と昼食をともにしてから出発し、途中雷や、霰に遭いながら長崎に到着、東横インに特典で一泊、その夜半行われるアトランタの献堂式を思いながら就寝。翌朝、フェリーで熊本に渡り南下。鹿児島県に入り、伊集院でアトランタのチェアワンキー・百合子さんの実家である教会を訪問、お母様にご挨拶をし、鹿児島市に入り、鰺坂正美先生と再会、夕食をご馳走になりながら歓談。東横インに泊まり、翌朝南に向かい、途中、姶良でアラバマの山口明香さんの母教会を訪ねましたが、こちらはお留守でした。午後早く指宿の内田家に着きました。内田さんのお母様のやすさんは、私の母あきの友人で、大変お世話になりました。もうお亡くなりになっていますが、今もご子息のご一家とご親交をいただいて喜んでいます。お墓にお花を飾った後、指宿の名所の観光案内をしていただいた上、奥様の節子さんのお知り合いだという立派な観光ホテルを用意してくださいました。おかみ直々の細やかなおもてなしで恐縮しました。有名な砂蒸し風呂もはじめて体験し大満足でした。翌朝、大分県別府を目指し、途中の宮崎市で開拓伝道をしている島田満雄先生の顔を見たいので早めに出発しました。シーガイヤの駐車場で待ち合わせ、すばらしいレストラン「ナブラ(魚群)」でお昼をご馳走になってから教会に伺い、奥様の久子さんにもお目にかかり記念写真を撮りました。別府までは思ったより道路もよく、又安くてよい宿も見つかりほっとしました。翌日午後のフェリーで四国の八幡浜に渡りました。ここの波止場には、宇和島で伝道している後輩の山崎恵子さんがお友達の西村さんと一緒に出迎えていてくださいました。時間の関係で今回はお寄りできなかったのですが、わざわざ来ていただいて本当にうれしく感謝しました。西村さんのご案内で隣町のレストランに落ち着いて、2時間あまり、食べたり、話したりと忙しく(でも十分ご様子を聞くことができました)、そして最後にはお祈りをしてお別れをしました。その晩は高松市(香川県)まで行くことができました。翌日、瀬戸大橋を通って本州に入りました。9日の午後長野市に着くのが目標ですが、どうやら予定より少し早く進んでいるようなので、土岐市(岐阜県)にお住まいの今井ミチエさんにお会いしたいと連絡してみました。青森県小湊で中学生時代から知っていたのですが、高校を卒業して、私の後輩として同じ学校に進まれた方です。中央自動車道インター近くのコーヒー店で近況など伺い、嬉しいひと時を持つことができました。その晩は松本の東横インに泊まり、翌朝松本城の桜を見に行きましたが、まだ蕾でした。九州に入って以来、どこへ行ってもサクラ・さくらでしたが、ここからしばらく桜が見られなくなりました。予定通り長野福音教会に着きました。正村正男先生が召されたのがつい昨日のように思えますが、今は八重子さんが牧師として重責を果たしておられます。さぞいろいろご苦労も多いこととお察しいたしました。翌日はダディが礼拝のご用をさせていただき、一日早く来たロバ仲間、石井昭子さん、高橋省子さんも一緒にお昼をいただいてから、教会の大きな車をお借りして「中一日」を楽しむために出かけました。途中の「アンズの里」は、花盛りでしたが、お花見の人出で駐車場がなく、車窓から楽しむだけにして、軽井沢に向かい、土屋文子さんのお家でお茶をいただきながらのおしゃべりの後、小諸の山の上に森さんの管理しておられるお宿に向かいました。翌朝44便に書いた足の故障が起こったのですが、治療を終えて会場に直行、ロバの会に合流しました。今回は20名が参加。昔の若者たちが年を忘れて夢、幻を語り合いました。久しぶりにお会いしたのは田原昭肥さん。5月には市川市へ行く予定なので、ご自宅にお邪魔して米子さんにもお目にかかりたいと願ったのですが、それから間もなく米子さんの訃報を聞くことになるとは夢にも思いませんでした。ロバの集まりの後、大部分の希望で「松原湖バイブル・キャンプ」を見学しました。私たちは正村さんと長野に帰って、もう一晩教会に泊めていただき、翌朝早く新潟に向かいました。そこのホームでは鶴岡はつ先生が待っていてくださり、ご一緒に健康ランドで裸のおつきあい。きちんと整えられたご生活、目の前には桜並木(まだ蕾)が眺められます。先生は何だか若返られたようです。先生のお部屋に泊めていただくつもりでしたが足を痛めたため、畳にフトンでは起ち居が難しく残念ながら次回の楽しみにさせていただきました。新潟を出て、かつて義弟の石川医院で働いていた京子ちゃんが、結婚して秋田県にいるので会って行こうというので、国道7号線を北上しました。新潟から秋田にかけての日本海沿いの美しい筈の松林が茶色く枯れているのを見ました。松食い虫にやられたということでした。京子ちゃんはすっかり土地の人になりきっていました。お孫さんもいるそうでお幸せそうに見えました。そこから更に北上、青森県に入って鯵ヶ沢町では、昨年の夏アトランタでお世話した佐藤ゆきえさんを訪問しました。ちょうど御主人もいらっしゃいましたが、ほとんど一年中、出稼ぎに出ているとの事。この町の宣教師エリオットさんに紹介しました。そこから1時間ほどで40年ぶりの五所川原市に入りました。五所川原福音教会は先輩の鎌田光則先生が協力牧師をしておられます。牧師館に2泊しました。金曜日の夜は祈祷会でした。古いお知り合いの方々の顔が見えました。口に言い表せないほどの懐かしい感動の時でした。土曜日の朝、その一人で、美容師の中谷みさをさんが来られ、昨夜中何ができるかを考えて、私の髪にパーマをかけることにしたので来てくださいと言われました。午前中に老人施設の久末さんと、留守宅のご夫人を訪問してからお伺いしました。まず昼食をご馳走になり、他のお客さんは断ったからと、じっくり時間をかけてボサボサだった頭をきれいに仕上げてくださいました。皆さんの熱い思いに幸せを感じるとともに、申し訳ない思いでした。鎌田先生は小湊のご自宅にも泊まるようにと言ってくださいましたが、敏子夫人のお母様の具合が悪く、弘前のご実家から度々連絡が入るので、それは次の機会に…とお断りしました。日曜日、早朝礼拝の後、名残を惜しみながら青森市に向かいました。青森福音教会は私が高校を出てすぐキール宣教師、フェーデル宣教師と一緒に開拓伝道のお手伝いをした所です。その後、鎌田先生が42年間牧会され、10年前からは深谷先生の時代になっています。しかし、その頃の青年、学生、子どもたちが、いい年になっておられ、懐かしさもひとしおです。楽しい昼食会では、教会初期の時代の思い出が次々に語られました。枝分かれした西部教会から千葉さんご夫婦も来てくださり、この日は千葉さんのお宅に泊めていただくことになりました。その前に、現在は他教会に移られた三上昌子さんと寺島信子さんに文化会館でお会いしました。今では青森にも高い、大きな建物が多くなりましたが、昔は、幅の広い道路の両側の建物は、平屋か二階建てが多く独特な町だった記憶があります。昌子さんは小湊のひかり幼稚園の先生、信子さんは青森でも本当の初期からのお付き合いがあった方です。脳梗塞になってしまったという信子さんは、いくらか体がご不自由になっていますが、明るいしっかりした姿勢で立ち向かっておられ頼もしく思いました。千葉さんの家では、ご主人手作りの餃子をいただき、昔語りなりました。夫人の安さんに、宣教師に代わって、結婚を奨める手紙を書いていたのは私だったのですから仕方がありません。一度も会うことなしに、長野県から嫁いで来られ、時を経て、今はすてきなご夫婦になられました。

翌朝は7時のフェリーに乗るため、安さんの作ってくださったお弁当をいただいて、まだ薄暗い6時には失礼しました。フェリー乗り場では、係りの方が私の杖に目を留めて、船内のエスカレーターの近くに駐車する様、誘導を手配してくださり感謝したことでした。

やはり、2回で終わりませんでした。どうぞもう一回お付き合いください。では。  

郁子 

 

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