アトランタ発第46便(日本旅行記3-3)

2005・6・15

さていよいよ北海道です。函館に上陸し、まず歴史的に興味のあった五稜郭を見物し、伊達市の金子弘先生の所に着いたのは5時頃でした。いつも心温まる笑顔で迎えてくださるお二人です。しばらくお交わりした後、途中昭和新山を見物し、洞爺湖畔の温泉ホテルに案内してくださり、すばらしい夜を味わわせていただきました。翌朝湖畔を走ると遠くは雪山なのに道端には一面にフキノトウです。子どもたちが摘み集めると1キロ百円のお小遣いになるとテレビで言っていたのを思い出しました。羊蹄山(蝦夷富士)の麓を回って、ダディが50年前天幕伝道をした倶知安町に寄りました。お留守でしたが教会ができていました。(後日、当時を覚えておられる役員の方から連絡があり、今は無牧で、苦労しておられる様子でした) 札幌市ではメノナイト・センターで浅井礼二先生ご夫妻が待っていてくださいました。夕食には本多泰治先生と順子夫人もお手製のケーキを持ってお出でになり、弘子夫人の手作りのおすしとともにおいしくご馳走になり、北海道の近況を伺うことができました。翌日はダディと二人で札幌見物。昔祖父が牧場長をしていた今の「羊が丘」を見てから、足を延ばして旭川市まで行きました。道路の横は雪の土手でした。三浦綾子記念館で感動の時を持ち、今も働きながら会堂を建て、開拓伝道をしている後輩の志村豊先生を訪ねました。四人の子どもさんのうち二人が学校から帰って来られたので会えました。ご夫妻ともお元気な様子をうれしく拝見、「ガソリン満タン!」のプレゼントを感謝して札幌のセンターに戻りました。21日は苫小牧港からフェリーで仙台までの船旅です。札幌に別れを告げ、時間があったので、登別で日帰り温泉に入りました。道東は吹雪というニュースで、天候が心配でしたが予定通りに出航。乗ってから知ったのですが、一万四千トンで日本では一番大きな貨客船とのこと。かなり揺れてお風呂の湯は波立っていましたが、早々に眠ってしまいましたので酔うこともなく、翌朝9時には、春真っ盛りの仙台港に着きました。この船の最終目的地が名古屋なので、愛知万博「愛・地球博」に行く人が大勢乗っていました。仙台からは菊池良一、郁子ご夫妻を南三陸キングスガーデンにお訪ねするため気仙沼市(宮城県)に向かいました。お話に伺っていましたが、神様がお二人のためにお備えくださった良い所を直接見せていただいて感謝しました。その日は弟の住んでいる町を目指しましたが、地理が分からず、ドシャ降りの雨の中、時刻も遅かったのでやっと見つけたホテルに泊まりました。翌朝電話をすると、なんと弟の家のすぐ近くでした。実は弟が手術のため入院という状況でしたので、場合によってはここに何日か滞在することも考えて、後の予定は空けてあったのですが、検査の結果手術は延期と決まり、元気な様子なので東京へ帰ることにしました。でも、翌日は日曜日。久しぶりに那須のペンション、ハウス・オブ・レストに近藤秀夫先生ご一家を訪ね、那須高原教会の礼拝に出ることにしました。着いてみると、思いがけずそこに岡村又男先生のお顔があり、お互いにびっくり。結婚されたお嬢さんのしのぶさんと親子二組のご夫妻でいらしていました。短い時間でしたが旧交を暖めることができました。近藤先生のご一家もかわいいお嬢さんたちの代わりにお孫さんの世話をやく葉子オバアチャンの姿があり、月日の流れを覚えました。礼拝後帰京。月曜日は浦和(さいたま市)の「エマオ聖書通信講義所」責任者の天野洋行先生をお訪ねし、アメリカでの受講者のことなどをお話してご協力を感謝しました。その近くに青森時代の日曜学校の生徒、中村圭子さんがいらっしゃるのでお目にかかり、お食事をしながら近況を伺いました。寝たきりのお姑様を何年も介護しておられますが、ご主人と協力していろいろ考えながらがんばっていらっしゃるご様子、うれしく思いました。ひどい雨が降り出しましたが、教会(浦和福音自由教会)が近いからとおっしゃってそのまま雨の中を帰って行かれました。さぞ濡れたのではないかと心配でしたが・・・。

中野で一日のんびり休んで最後の長い旅行に出ました。軽井沢病院で予約してあったMRIを撮ってから土屋文子さんのお宅に伺い、まずは軽井沢一番の味で有名な「かぎもとや」のおそばで腹ごしらえ。午後は今が盛りという御代田町の桜見物、近くにはネクタリンの花も咲いていました。寒い地方は梅も桃もタンポポも一気に咲いて青い空に映え、本当に美しい気持ちよい日でした。たくさんお土産をいただいてお互いの健康を願いながらお別れし、佐久市(長野県)の「一万里温泉」に一泊しました。29日は韮崎市(山梨県)の「ロバ牧場」こと藤原孝行・正子さんのお宅に伺い、ロバメンバーの名簿のチェックをし、ダディは元我が家のコンピューターで「ロバの耳」用のテンプレートを作り、私はそれで原稿を一本仕上げ、行きなれた?市営の温泉にどっぷりつかって「牧場」に一泊しました。韮崎をを離れる前に、もう一軒、北海道中標津町の牧場を売り払ってここに移り、東京の神学校で勉強中の今井康清さんの家を訪問。奥様の康子さんとひと時楽しく過ごしました。一日余裕ができましたので、話題の新しい中部国際空港を見ることにして、その日は名古屋の東横インまで行きました。セントレア(空港)は規模では成田に及びませんが、民営で斬新なアイデアが盛り込まれ、活気に満ちていました。広い上に、長いスロープがあって私の足で 歩くことは無理なので、車椅子を借りて見物しました。夕方ダディの妹幹子さんの住宅(緑区)に着いて、ここに5泊しました。5月1日は昭和橋教会(中川区)で礼拝と交わり。木下信行先生ご夫妻とも楽しい時を過ごさせていただきました。2日の夜からダディの母教会である一麦教会(名東区)の五月聖会に出席しました。実は日程を間違ったため、一日損をしたのですがその分をメッセージのテープで補うことにしました。せっかく名古屋に来たのだから万博見物もと考えましたが、私の足のこと考えてあきらめました。4日には圭三さんのお母様、敏子さんとご一緒に名古屋で半日を過ごしました。中心地の新しい名所、水の広場に行きました。きらきら光る水の天井はすばらしい世界でした。幹子さんのお心遣いで最後になってやっと名古屋のきしめんをいただくことができ、心おきなく神戸へ出発。神戸市六甲にお住まいの後輩、愛原和子(旧名、林かずお)さんとご主人のお招きで、初めて六甲道を登って、すばらしい自然一杯でむせるような緑に包まれたお宅に伺いました。ご主人とは初対面でしたが会話も弾みました。まだクリスチャンではないと言われましたが、いろいろと教会のためにお力添えくださっていることを知りました。お住まいの近くの教会は、10年前の大震災の時にひび割れ、ひずみなど損傷しましたが、ひどい所の復旧を先にと、我慢してこられました。しかし限界に達し、これから再建工事に入るとのことでした。目覚しい復興の陰に、まだ傷跡が残っているのに驚きました。六甲温泉のすばらしいホテルに泊めていただき、翌日はお二人で太閤秀吉の湯殿跡など、六甲の名所を案内してくださいました。狭い急な坂道をすいすい走るタクシーの運転手さんには驚くばかりでした。最後に私たちの車で展望台に行き、雨上がりで霞んではいましたが、瀬戸内の景観を楽しみました。お名残を惜しみつつ六甲を後にし、堺市(大阪府)の東横インへ宿泊。13日の礼拝は、アトランタでお会いした原田選也さんの属しておられる堺バプテスト教会に伺いました。原田さんは翌日ヨーロッパへ転勤のため出発されるというぎりぎりのところでした。奥様に初めてお目にかかり、牧師の平良仁志先生にもご挨拶しました。富井さんも近くなのにと思いながら時間がなく、ダディの妹引地延子さんの住む和歌山市に向かいました。ご主人の秀世さんの発案で兄妹旅行の計画が立てられ、愛川の里子さん、名古屋の幹子さんも合流して、世界遺産になった熊野古道へ行くことになったのです。ちょうどこの日は母の日でしたが、秀世さんが感謝礼拝のプログラムを用意されており、ピアノの先生をしていらっしゃる秀世さんのお姉さまが賛美の伴奏と、独奏をしてくださいました。その後ダディに一言と言われ、亡き母に感謝の思いが語られました。特にクリスチャンになり、献身したいと両親に申し出た時、長男としての責任をどうするのかと言う父に、母がとりなしてくれたおかげで、今こんな幸せな生涯を送れていると、その責任を肩代わりしてくれた妹たちにもお礼を言うチャンスがありました。その夜、和歌浦のホテルで会食し、外来の4人はそこに泊まりました。14日は美しい海辺にあるいろいろな名所や施設を楽しみながら勝浦温泉に宿泊、翌日は有名な那智の滝を見物しました。この先吉野、高野山と進む一行と別れて、私たちは、勝浦教会の元牧師藤原先生の紹介で地元の信徒を訪問し、良い交わりができ、お土産までいただいて北陸を目指しました。途中の紀伊長島(三重県)で南弥生さんをお訪ねしました。93歳ですがお元気で、ご自分でお茶をいれて下さり、励まされました。家業(薬局)のドリンク剤をお土産にいただいて再出発。伊勢道から国道1号線を経て彦根市(滋賀県)で一泊し、13日は日本海沿いに一般道で鯖江市(福井県)に入り、給油に寄ったガソリン・スタンドで「外人の牧師がいる教会」を尋ねますと「ああ、マーチンさんですね、すぐそこですよ」と教えてもらえました。見慣れたおひげは無くなっていましたが、透き通るような青い目、大きな口は相変わらずで大切な奥様富美子さんと一緒に大歓迎してくださいました。すぐに失礼しようと思いましたが、せめて夕食を一緒にとおいしいトンカツやさんへ案内して下さいました。先生と初めてお会いしたのは私が高校生の時でしたから長いお付き合いです。昔話は尽きることがなく、お名残を惜しみつつお別れし、金沢市(石川県)の東横インへ。翌日は土砂降りの雨でしたが、ホテルとは目と鼻の先の金沢市役所で、鶴来町から出て来られる吉田敬子さんと待ち合わせました。青森で会った三上さんと一緒にひかり幼稚園で働いた先生で、我が家の子どもたちもかわいがってもらったものです。十数年前には体調が悪く「死ぬために来ました・・・」と弱々しく我が家にお出でになり、一ヶ月?くらい逗留されたのですが、今はすっかりお元気になってあちらこちらお出かけになると伺い本当に安心しました。そこから、北陸、上信越、関越、圏央と高速道を乗り継いで、東京・町田市の駒峯さんの新居に伺いました。高台の新開地で、周りはまだ空地だらけですが、これからここでしっかり新生活を築かれるようにお祈りしました。5月15日は同窓生で、義兄弟にも当たる柏市(千葉県)の池田勇健ご夫妻の恩寵基督教会で礼拝、いろいろな情報を伺うことができました。帰りには川崎市の病院に武田実さん(恒義さんの兄上)をお見舞いしました。すっかりお痩せになっていて心が痛みましたが、先日洗礼を受けられて力強さも見える思いがしました。その足で熱海に向かい、翌朝の船で伊豆大島に渡りました。去年脳の手術を受けられた相沢良一先生のお元気なお顔を見、両親のお墓に花を飾り、中学時代の仲良したちと島言葉の残る会話を楽しみました。17日夕方熱海に帰り、網代に一泊。翌日、ご奉仕先で倒れ、伊豆高原のリハビリ・センターに入院中のダディの古い同僚であり、私の後輩でもある川島賢広先生をお見舞いしました。後遺症でしょうか?ふとまじめに現実離れしたことを語られのに驚くとともに、その魂になおも主のために働こうという熱い火が燃えているのを感じ、速やかなご回復を祈りました。その後、三島教会(静岡県)の長倉勉・喜代子先生を訪問。130年昔のバラ宣教師に始まる伊豆宣教の歴史についての話に花が咲き、多くの伝道者を育てたバラさんのお母様がどんな人だったかを調べてほしいと頼まれました。2時には「山のホテル」のつつじを見てきた妹たちと箱根で合流。あいにくお天気は悪かったのですが小涌園ホテルに泊まって鶯の声を楽しみつつみんな元気でいられることを感謝し合いました。妹たちと別れて愛川に帰る途中、ちょっと回り道をして、東京・町田市にお体の悪い飯野さんを訪問することができて感謝でした。翌日は、帰国前の診察を受けてから、里子さんと買い物を済ませ、遅いお昼を日本で一番おいしいと思っている東名・太井松田の近くにある「三味」のビーフシチューを食べに行きました。25年以上になりますが、変わらず期待通りで大満足でした。22日は富津市(千葉県)の大堀教会の礼拝へ。奥深山頼義先生の奥様、浪子さんが心筋梗塞を起こされたと聞き心配していましたがお元気そうで安心しました。この少し前に木下弘人先生を天に送られたドーラ夫人にもお目にかかれました。さて25日は楽しみにしていた上野高校のバレー部仲間との一泊旅行です。湯西川(栃木県)に用意された「平家25代直孫の宿」は本当に山深いところにあり、そこまでのドライブも素敵でした。夢中でバレーボールを追っていた若い日々を懐かしく思い出しました。引揚者として苦しい中での夜学生生活でしたが、バレーボールに触っているだけで心癒され、励まされていたように思います。28日は、車を貸してくださった高野さんにお礼が言いたくて、小田急・向ヶ丘遊園駅から数分のご新居を訪問しました。ご主人の介護をしながらしっかり歩いていらっしゃるお姿に尊敬を覚えています。その日夕方にはダディの母の実家の法事を前にして厚木市で夕食会があり、遠くの叔母様方、いとこ達にもお会いすることができました。29日にはアメリカからフィンロー先生も来ておられるというので、東京・大泉のジョセフ先生の教会に行きました。そこはアトランタの聖学院の先生で、帰国された上野高校の後輩でもある山脇波奈子さんの母教会で、お母様にもお会いしました。聖学院の先生で、同じ頃帰国された山本千枝子さんをお誘いくださったので懐かしい再会の時となりました。フィンロー先生はお元気そうでもうしばらく日本を楽しまれるということでした。私たちはその後、荷造りに追われ時間との競争でしたが、30日には一万四千キロ(アトランタ・成田間とほぼ同距離)を走ってくれた車をお返しし、この長い旅が無事に守られた事を心から神様に感謝しました。

多くの方々のご支援をいただき、数々のお世話をお掛けしたことに心からお礼を申し上げ、感謝を込めて旅行記を終ります。

郁 子

 

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