一麦:渡辺家のHP
アトランタ発第56便
2006・6・28〜7・10
6月26日、17日間の旅行から帰ってきました。「ただいま〜」と大きな声で叫びたい思いです。すぐ次の旅行があるので、半分だけでも・・・と書き始めました。
ミシガンでは「先生たちが南部から暑さを持って来られた」と言われました。留守中猛暑だったというアトランタ、帰って来た日は大変涼しく、これまたミシガンの爽やかな空気を持ち帰ったようです。日本はいかがでしょうか。アジサイの美しい季節ですね。傘をさしてのアジサイのお花見、懐かしく思いだしています。
さて、6月10日、旅の出発はバーミングハム(アラバマ州)、途中から連絡があって、いつも泊まるキャロラインハウス(教会のゲストハウス)の鍵を取って来て欲しいと頼まれて、初めて大きな教会(会員4,000人)の連絡箱の置いてある部屋へ行きました。しかし鍵は見当たらず、そのままバイブルクラスがある千鶴さんのお宅へ向かいました。その夜は教会で契約しているホテルに泊まりました。翌日礼拝後、皆さんに送られて2年ぶりのテネシー州のメンフィスに向かいました。北へ4時間半の距離です。途中、玲子さんの電話で、夕食を用意するので食べないで着いて・・・と言われました。ところが最終段階で、コンピューターの道案内と道路がちょっと違っていて、何度も電話をして、近くの店の駐車場まで迎えに来てもらい、9時近く到着と言う羽目になりました。ご主人ともども温かく迎えていただき、食後も久しぶりの話が弾みました。翌日の家庭集会は、車がなくてご自分では外出が難しいという光子さんのお宅が会場です。懐かしい方、新しい方数人がもう集まっており、その朝、バーミングハムを5時に出たという安江さんももう着いていました。私は出発前に、半端の千代紙を使って小さなメモカバーを100個、しおりを20枚くらい名刺代わりに用意して出かけましたが、これは何処でも大変喜んでいただけました。聖書のお話の後、明日はダディの78歳の誕生日ということで、みんなでハッピーバースデーを歌って祝っていただきました。3時には皆様にお別れして、同じテネシー州で、東へ3時間ほど離れたナッシュビルへ向かいました。そこでスー・ベネディクト先生が待っていてくださいます。ここではご子息のジムさんの奥様、安江さんが先導してくださったので安心でした。スー先生は永く日本で宣教師をしておられた方です。日本ではお会いしたことはありませんでした。でも日本語ペラペラでまるで日本人・・・の先生とは何十年も前からの友達のように思われました。生涯かけて日本を愛された先生たち、昨年ご主人を一足先に天に送られました。近くにお子さん(皆さん日本育ちで日本語ができ、日本語学校で教えたり、公文教室を開いたりしている)やお孫さんもいらして、翌日には顔を出してくださいました。ご用意くださったお心づくしの「ごもくちらし」でお夕飯を頂き、日本の話に花を咲かせたことでした。スー先生は、ここで毎週月曜日に日本婦人のためのバイブルクラスを開いておられます。夏休み中でしたが、先生が特別に声をかけてくださって、帰国中の方もあるなかで、13人(プラス子どもたち)が来られました。全員主婦ですが小さいお子さんを連れた若いママと、長年アメリカ生活をしてこられた年配の方々が混じっていました。それに、私たちが寄りたいと思っていたナッシュビルのダウンタウンにあるアメリカ人の教会で、日本語礼拝をしているウォーカー先生もおいでくださり感謝でした。先生は日本で7年間宣教師として働いた後、今は帰国中ですが、その間も日本人のために活動しておられます。日本人の若者のグループは、この教会で月に一度土曜日の夜に「TJナイト」という集まりをしています。ウォーカー先生とはまた連絡を取り合うお約束をして次に向かって出発しました。その日は隣のケンタッキー州のエリザベスタウンまで行って泊まりました。翌日少し走ってインディアナ州に入り北に向かって縦断しました。この辺は本当に驚くほどまっ平らで地平線がぐるりと見えるようなところです。「思えば遠くへ来たものだ」とつぶやきたくなりました。当初ミネソタ州まで行く予定でしたが、先方と連絡が付かないで今回は見送りました。出発前夜、グランドラピッツ(ミシガン州)の佐々木千恵子さんから娘さんの陽子ちゃんの病状が大変悪く、“明日はホスピスに入れる、もう長くないと思う”という電話があり、毎日祈りながら進んでいました。集会の日程が始まる前に、お見舞いに伺うこともできると思い電話をした所、いくらか病状も落ち着きはじめているがだれも会うことができないということでした。それで、いくつかの聖書の箇所をお伝えして、ミシガン湖畔を見物し、休養することにしました。ミシガンに入った頃から、ダディの右足が痛み出し、この余裕の三日は本当に感謝でした。17日、バトルクリークに向かったときには痛みもおさまっていました。22日にミシガンを離れるまでに、東に1時間余のアンナーバーと、北西に1時間半のグランドラピッツと三つの町の間を行ったり来たりしながら7回の集まりがありましたが、どこでも大変喜んで迎えてくださり、「聖書」を中心にした学びは大変祝福していただきました。17日は礼拝が午後1時からでした。ホーランドの大学で日本語を教えながら伝道していらっしゃる中島先生が牧師です。4年前、赤ちゃんで大きな手術を控えていたノエルちゃんの元気な様子も見ることができました。また、以前「ザ・メッセンジャーズ」として日本で音楽活動をしていた織田さんが、その後神学校で学び今は織田先生として活動していらっしゃるのに久しぶりにお会いしました。礼拝の賛美は先生がリードされ、教えていらっしゃる女性コーラスグループが美しい賛美を聞かせてくださいました。礼拝後、夕方5時からバイブル・スタディーがあり、泊めても頂く水田さんのお宅に伺いました。愛犬のジョイとジローにも再会。ご主人とは初めてお目にかかりましたが、予想通りのお方で、このご夫婦がこの地域ですばらしい働きをしていらっしゃる様子を拝見し心から神様に感謝しました。いろんな方がまるで自分の家のように出入りし、のびのびと安らいでいる様子は格別です。とにかく、家中に人が入り、子どもが駆け回っている有様で人数を確認することもできませんでした。ご主人とも話が弾み、寝なければ・・・と言いながら1時半まで時を忘れて過ごしました。翌日はアンナーバーの礼拝で9時には出発しましたが、そこでは楽しみにしていた宮崎先生、千穂夫人と大きくなったルカ君と前のときおなかにいたダン君が元気に迎えてくれました。思いがけなかったのは、日本で宣教師だったマクガイヤー先生ご夫妻とお目にかかったことでした。私たちが一緒に働いた宣教師たちと同じ団体ですが、お会いするチャンスがなかった方です。あの方、この方と懐かしい情報で話がつきませんでした。今回の旅行のきっかけを作ってくださった曽根岡ご夫妻や先生方と夕食を頂きにレストランへ行きました。そこでもう一つ忘れられないことがありました。杉本さんご夫妻(奥様はアメリカ人)が合流されたのですが4歳の女の子二人を連れておられました。同じ髪型同じ服ですがよく見ると顔は違います。最近ウズベキスタンから養子にしてきたとの事。2月生まれと3月生まれの同い年、私はなんだか64年前の私と牧実の姿と重なるような思いがして目が離せませんでした。これから中身の違う二人を育てていかれるご夫妻に神様の祝福が豊かに注がれるように祈らされたことでした。月曜日にはバトルクリークに戻り、水田さんのお宅でお母様方の会がありました。ここに今回連絡がつかないで取りやめにしたミネソタから、祐子さんもお出でくださり、実は「メールをだしたのになぜか届かなかった」のだとわかりました。神様のご配慮だったのでしょう(ミネソタはまたの機会に・・・と考えています)。祐子さんも1年ほど前にパキスタン?から男の子の養子を迎えたものの具体的な問題にもぶつかっていらっしゃるようでした。こういう養子問題は日本ではあまり周りで見られないことですが、普通の子育てとは違う要素も含んでいることを思わされました。この日はまた国際結婚をして3人の子どもを育てていらっしゃる喜代子さんが大きな問題を抱えて参加しておられましたが午後11時頃になって、神様を信じて歩みだしたいと決心をされ、大きな喜びに沸きました。子育てについては中一日おいた21日にアナーバーの宮崎先生のお宅でも学ぶ時が与えられました。この時は聖書から系統立てて学びましたので、先生が今勉強している大学のレポートに書かせていただきますと喜ばれました。しかし、ここはミシガン大学の町であり、お母様方と言うのも各分野の専門家であり、学位をもっておられるような方々です。私の話の中で最近の脳科学の例話を取り上げました所、後から、その専門の方から「全く先生のおっしゃるとおりです」と言われてほっとしたり、ヒヤッとしたりでした。中一日というのは「今は天国」のネットランド先生がいらしたグランドラピッツでの集会でした。4年前の時には先生とこの道を通ったものだな、など懐かしく思い出しました。肥田さんのお宅で10名の婦人が集まりました。中には60年前、お世話になった上海の中日教会の古谷孫次郎先生を知る方がおられたり(お嬢さんのお友達)、手芸の先生がおられたりして話が弾みました。夜はお嬢さん、陽子ちゃんの病状も安定したということで、佐々木さんのお宅でも3人の方がいらっしゃってお勉強の時を持ちました。陽子ちゃんは11歳で発病し、22年間手術につぐ手術で苦しんでいます。お母様の千恵子さんのお苦しみも大変ですが、少しでも落ち着いて穏やかな日々をすごせたら・・・と祈っています。集会以外では、曽根岡ご夫妻にお目にかかり、特にフサ子さんと親しくお交わりの時を与えられて感謝でした。間、間のわずかな時間、ホテルまで迎えに来てくださって、軽井沢を思わすような緑の木々に囲まれ、湖の畔のお宅でおもてなしを頂きました。この家は何か海外の学生を迎えるような働きのために使いたいと願った方が作られた家だそうで、自分たちの部屋は大変質素に狭いものだそうですがいたるところにそういう思いを感じることができる家でした。教会でも何かの時にはここを使っているということです。フサ子さんもガンを抱えながらですがとても明るく積極的な生き方をしておられます。日本では珍しいことですが曽祖父様もクリスチャン、お祖父様は牧師という方です。いろんな方のお世話になりミシガンでの数日はあっという間に過ぎた感じですが、確かに今、神様の働きが進められていることを感じました。そして、この、ミシガン州の横に並ぶ一本の道は、昔、一人の日本人のクリスチャンが多くの人が救われるように祈りながら「歩いた道」だと伺って襟を正す思いになりました。22日は「もう一度」とフサ子さんのところですき焼きなどご馳走になってからオハイオ州に向かいました。ひどい大雨で視界が悪くちょっと迷ってしまい、あまり進めないで泊まりました。翌日は天気もよく、周りの景色は「麦秋」でアメリカの穀倉地帯そのものでした。とうもろこしが1メートルにも育っています。インディアナは平らでしたが、オハイオはなだらかな起伏もあり、牧畜も盛んなようでした。本当の田舎道を延々と走り、あらためてアトランタは大都会であり、私たちが都会に住んでいるのだと実感しました。24日はデイトンに住むダディの従兄弟、河合喬史さんの長男有作君の結婚式でした。前夜のリハーサルディナーから始まって、当日は古いカトリック教会で式があり、その後アート・インスティテュートの素適なホールでレセプションがありました。日本から来られた方たちとも同じテーブルで久しぶりの時を楽しみました。25日はダブリンの杉田先生の教会で礼拝の奉仕をしました。何年か病気で療養されていた奥様もすっかり元気になられ、初めてお目にかかり感謝でした。今回の走行距離は3100マイル、約5000キロでした。元気で帰れたことを感謝しています。この旅行でミシガンが近く感じられるようになりましたので、許されればまた出かけたいと思っています。
あまり疲れも感じないで帰宅した翌日、その次の日と続けてプールで「歩く」運動をしましたが少しやりすぎてかえって腰が痛くなり、その後のパナマシティーでの数日は何も手伝えないで休んでしまいました。「疲れは後で出る」と言う年を忘れた行為だったと教えられました。今回のフロリダ行きは、忠信リンは引越しの片づけがあるので、子どもたちだけ連れて行きました。山崎家も参加することができ、子どもたち5人は釣りに海遊びにプールにとエネルギーを発散させていました。山崎量君はもうシカゴの会社に勤めているのですが家が買えないで引越しができずにいます。希望に合った地域に物件が少なく、大変高いということです。アトランタはまだ安いそうです。忠信のペンシルベニアの家はまだ売れていませんが、ケネソーでは4ベッドルーム、4バスルームというかなり広いものが買えました。先日見に行きましたが、庭は平らで一部が板で囲われています。今度は犬を飼うことにしています。大きなプールが付いており、水の検査や循環装置のことなど教わっているところ。外側の芝生の一部に畑を作るつもりのようですがこれは来年の仕事でしょう。1階の一つの部屋は私たちが行ったとき泊まれるようにしてくれています。そのうちもう一部屋建て増しをするそうですがそれまでは来客があればゲストルームにも使いたいとのことです。給湯機も二つあるそうですからお湯がなくなる心配はないでしょう。もう大学での授業は始まっていますが、これからの新しい仕事が祝福されるように祈っています。私たちの方は、一休みしてこれから夏の後半が始まる所ですが、子どもたちの学校は、ジョージア州では8月から秋の学期が始まります。長い手紙になりました。どうぞ、お元気で楽しい夏をお過ごしください。
神様のお守りとご祝福を祈っています。郁 子