一麦:渡辺家のHP
アトランタ発第69便
2007・12・29
12月10日、たくさんの思い出を持って元気に帰ってまいりました。多くの方々のご親切と暖かなお交わりを頂き、また、神様の不思議な「おりにかなった助け(ヘブル4:16)」を頂いて感謝いっぱいです。今回は、旅行のあらましを綴ります。
10月26日(金)の夕方、東京・中野の自宅(妹・維子宅)に着きました。まず、大きなお風呂に入りたい、という忠雄の注文で近くの銭湯へ・・・、更に用意された日本の味に舌鼓。大満足でした。維子が用意しておいてくれた「東京都シルバーパス(年間千円で、都内の路線バス〔民営も〕・都電・都営地下鉄に乗れる)」の恩恵で、翌日のお昼には帰国中の杉山さんと「中華飲茶」を食べながら新宿でお交わり。次の日曜日は、山本優佳子さんと連絡をとり、数週間後に結婚式が行われる東京・阿佐ヶ谷の久遠キリスト教会(お相手の上野直さんが属しておられる)の礼拝に出席。両家のご両親(共にクリスチャン)にもお会いし、ゆっくりお話を伺うことができました。月曜日、帰国の目的の一つ「医療費の請求書類の提出」を終え、夕方には「本厚木」駅で忠雄の妹・里子さんに迎えられ、久しぶりの「フランス懐石」をご馳走になって、懐かしい愛川町に帰りました。ここで、帰国目的の二つ目「健康チェック(心エコー検査と内科・眼科の検査・診察)」と投薬を受けました。この2,3日は里子さんの車を借りましたが、11月1日からはマンスリー契約でレンタカーを借りての行動です。車は青の「シェンタ」、コンパクトながら7人乗り、カーナビつきです。まず平塚までドライブ、私の「全く動けなかった」腰痛でお世話になった骨盤調整の山崎先生を訪問、今も手放せない「ゴムバンド」を購入。その足で町田の東急ハンズへ結婚のお祝いに聖句の刺繍をしたものの「額ぶち」を探しに行きました。途中、3年前に帰国された小林孝子さんにお電話をしましたら、「浦和の教会で大きな集まりがあり、今終わったところ。夕方には町田に帰る」とのことで、用をたした後、新しいお宅に伺って夕食をご一緒することができました。次の日は、懐かしい古巣を走り回りながら、必需品を買い整え、「もみじマーク」を張り、後部座席を畳んで荷室を拡げ、大きなスーツケースを二つ、そして、いくつかに分類した紙袋を積み込み、長旅に備えました。
11月3日、大名行列で交通規制のある箱根を避け、伊豆に向かいました。4日(日)に、130年の歴史を持つ三島教会で「諸聖徒(召天者)記念礼拝」に出席するためです。礼拝の中で、この教会初期からの召天者すべての名が読み上げられます。日本のキリスト教史に大きな足跡を残された方々の名前があります。その中に今から114年前に召された郁子の曽祖父の妹・川口国子の名や、姻戚に当たる多くの名前もありました。最後にはこの年亡くなられた若い婦人の名前が加えられ、まさに「地上と天上の合同礼拝」でした。礼拝後、この夏アトランタでお目にかかった湯山さんご夫妻におもてなしを頂きました。湯山さんとは遡ると、どうやら親戚関係に当たるようです。楽寿園で「菊人形の展覧会」も見せていただき、また次回のお交わりを楽しみにお別れしました。名古屋に向かう途中清水の成田典子さんを訪問。お母様のお世話をしながら、忠実な教会生活を送り、祈りと献げ物でしっかりと世界の伝道にかかわっておられる典子さんにはいつも大きな励ましを頂きます。典子さんに送られて、夜遅く忠雄の妹、幹子さんのところに着きました。
幹子さんの心づくしでいろいろと名古屋の味を堪能させていただき、中一日休んだ後、岐阜にお住まいの圭三さんのお母様・敏子さんを訪問。もう86歳におなりですがいたってお元気、私達のためにいろいろお心遣い下さり、その夜は岐阜羽島駅の近くに新しくできた「かんぽの宿」にご一緒に泊まり、美味しいお料理と温泉を楽しませていただきました。翌日は9時に出発、岡山で小学校の同窓会総会のある忠雄は名神高速を北に、私はJRで南・那智勝浦に向かいました。同窓の藤原さんの紹介で前回の訪日の際にお会いして以来の吉川トミ子さん訪問です。紀伊半島の先端ではチョッと寄り道とはいきませんが、翌日岡山で忠雄と合流すればよいので私だけ1泊させていただきました。トミ子さんのご案内で観光遊覧船に乗り、太平洋の外海にまで乗り出した時にはかなりの大波でびっくりしました。鯨の博物館の近くでは「いるかショー」も見ることもでき、楽しい経験でした。夕食前には近くの温泉に出かけましたが、近くの島にある大きなホテルが明るく輝いており、ここが観光地であることを思わされました。夜は教会で祈祷会、この地方の伝道のことなど伺い、お祈りしました。トミ子さんのすばらしいお料理と素敵なご主人も交えてのお交わりを感謝しました。翌日昼、岡山で忠雄と幹子さんと合流。1時間ほど北の津山から「駅前で喫茶店を開いています。日曜日には教会へ行っています。またお会いしたい」という年賀状が届きました。難波さんとおっしゃるご夫妻で、アメリカでお会いしたのは確かです。お名前に聞き覚えはあるものの、お顔などの記憶は定かでありません。しかし近くまで行くのですから立ち寄ることにしました。三階建ての白い小さなビルの一階に「サクラ」があり、そこに待っておられたのは、オハイオ州ダブリンの杉田先生の教会でお会いしたお方でした。津山の教会の子安先生も来てくださり、美味しいコーヒーを頂きながら本当に楽しいひと時を共にすることができました。地上でのわずかな接点が海を超えて神の家族としての確かな交わりに拡がることを感じました。
そこからは幹子さんの運転で、その夜は名古屋の家に帰って泊まり、翌朝肝臓癌で療養中の下枝叔母様(忠雄の母数枝の妹)をお見舞いに向かいました。昼近くに従妹の和子さん宅に着きました。宮崎と神戸の叔母様たちも来ておられ、この時期しか味わえない取れたての「桜海老とシラス」とお鮨を頂いて、病院へ向かいました。叔母様は思ったよりお元気そうで、車椅子で談話室まで出てこられてお話をすることができました。この叔母様とは不思議な繋がりがあります。100年近く昔、「丹那トンネル工事」のために3人の測量技師が私の祖母の実家(丹那の川口家)に逗留していました。その内の一人が私の親戚(川口の娘と結婚したため)になり、もう一人がこの叔母様が結婚することになる方のご親族だったのです。そんなことも含めて、母を中心にしてまとめた「我が家のルーツ」を1冊お届けしました。でも、この3週間後に亡くなられたので読んでは頂けなかったでしょうが、お渡しできただけでも良かったと思っています。幹子さんはJRで名古屋に帰り、私たちは夜8時頃には愛川に着きました。翌朝は雨降りでした。眼鏡やさんで注文してあった眼鏡を受け取り、傘を一つ買って町田に向かいました。関西から関東に戻り、すぐ名古屋に帰るという強行をしたのは、もと一麦キリスト教会の方々との集まりのためです。懐かしい方々、大きくなった子供(あの頃は未だいなかった幼子)たち、松浦ご夫妻の心づくしで暖かな会場が準備されていました。ミニ礼拝の後は、時間が戻ったような家族の食事会でした。お別れして7年、それぞれいろいろな生活の変化を味わいながらも、こうして集まれたことを心から感謝しました。この集まりに小林孝子さんも「徒歩2分」のお宅からお出でくださったことも嬉しいことでした。
11日は忠雄の母教会・一麦教会(名古屋)で久しぶりの礼拝です。96歳になられた松原先生は大腸癌で療養しておられ、この日はご入院中でした。礼拝後、多くの懐かしい方たちにお目にかかりました。そのお一人、加藤京子さんは、忠雄の後に奏楽のご奉仕をしてくださった方で、忠雄の母・数枝ともども先生とは長いお付き合いです。ご一緒にお見舞いに伺うことになりました。会堂を出たところで、献品された暖かそうなジャケットが売られていました。声をかけられた京子さんが着てみて「軽くて暖かい。お揃いで買いましょう。」と、何だか解らないままにプレゼントして戴きました。この後、寒い青森へ向かう時で、驚くばかりタイミングが良く、文字通り「暖かい」贈り物に感謝いたしました。さて、先生が入院しておられるのは、郊外の大きな牧場のそばにあるクリスチャンの病院で、老人施設も併設されています。先生は笑顔で迎えてくださいました。お食事は中身のない茶碗蒸しみたいなやわらかいものだけだそうです。姪御さんの大田さと子さんが付き添ってお世話をしておられましたが、明るい方でした。1時間半ほどお邪魔していましたが、帰る途中で「にぎやかなお見舞いだったね」と言ったほど病室に笑いが絶えませんでした。このさと子さんから思いがけず「五平餅」の作り方を習い、お道具を頂くことになり大喜びをしました。そのうちにアトランタで「日本の味」をふるまってあげたいと思っています。もう一晩幹子さんのところに泊まるので、一度味わいたいと思っていた有名な「ひつまぶし」をご馳走になりました。予約客だけのお店だそうですが、本当に美味しい「う巻き」もはじめていただきました。翌日は中央道を通って小淵沢での「ロバの耳」の集まりです。宿泊は10人ですが、夕食には、近くの町から、テレビの英語講師などでも活躍しているドクター木下ご夫妻が参加されました。飛び交う会話の一つ一つがお互いに知り尽くした「兄弟姉妹」のもので、暖かく慰めに満ちているように感じられました。機関紙の発送作業も手馴れたもの、のんびりすることができました。翌日は細い山道を入るドクター木下のログハウスに招待されました。コンピューターの時代になって、都会でなくても仕事ができるのだそうです。次は新潟です。この15日で87歳になられる鶴岡先生は朝から待っていてくださったようですが、山梨で解散したのがお昼近くですから夕方になりました。夕食を済ませ、忠雄は私をホームの玄関前で降ろしてそのままホテルに向かい、私は先生の部屋に泊めてもらいました。少し前に行って来られた学校(TCU)の話やご近況をお聞きしました。明日は午前中に施設で「豆の皮むき」があって午後からはそれを食べるお祝いの会があるとの事。午後9時半には床に入りました。朝は7時にスピーカーでラジオ体操の音楽が鳴りだしてびっくり、久しぶりに体操をしました。9時には忠雄も来てお茶を頂き、その後すぐに出発、青森に向かいました。天気予報によると、荒れ模様になると言うので、日本海側を北上する予定を変えて、磐越道から東北道に出ました。仙台に入った頃、のどが痛み出し熱っぽくなってきました。早めに治療をと思い、カーナビで探すと近くに内科病院があり、夜間診療をしていました。病院から1時間ほど北に当たる大和町にホテルを予約しました。天気予報の通り、冷え込んできました。日本に着いた時から夏用のサンダルに代る靴を探していましたが、やはり北国、希望通りのものを発見、その後、更にズボンを一つ買おうと決めた時、目の前に「しまむら」があり、飛び込んでぴったりのものを見つけました。その日が新装開店の大特売日とかで、重ね重ね感謝しました。一つ一つのことを「偶然」と思わず、神様のご配慮と思うと本当に感謝せずにいられません。翌日八戸で一泊しましたが、忠雄は50年ぶりの町並みに感慨深そうでした。南部から津軽に入り、小湊の鎌田先生のお宅に着くころは雪もちらついてきました。40年前にはなかった温泉が出て、町営の夜越山温泉、公園、キャンプ場などもできています。スイスから帰って青森伝道を始めたという鎌田家の一人息子の新さんにお会いするのも楽しみの一つでした。息子さんとの生活で、先生たちもお幸せそうで、心から感謝したことでした。小湊ではもう一人40数年ぶりになる鈴木欽一さんにお会いしました。お互いに年はとったもののお元気で、本当に喜んで待っていてくださいました。もう亡くなった多くの方のお名前が飛び出し、昔話に時を忘れました。白鳥渡来地としても知られる「浅所海岸」です。今年も来ているようでした。その一角にバイブル・キャンプ場があった頃は、目の前でみそ汁用のシジミがたくさん取れていたものですが、今ではすっかり、汚れてしまってダメになったそうです。次の日から私たちは青森市内の鎌田先生が管理する一軒家に移り、2,3日自由に使わせていただくことになりました。18日の礼拝は「あすなろ教会」に出席することにしました。小湊の「ひかり幼稚園」で一緒に働いていただいた三上昌子さんともそこでお会いするつもりでしたが、風邪をひかれて実現しませんでした。あすなろ教会の芦名先生は元ボクサーという変った経歴を持つ牧師です。しかし、それよりも、その昔を知る私には感慨深いものがありました。フェーデル先生について青森に行った私は、結核療養所に出入りして伝道する許可を貰いに行きました。そこで、信仰を持たれた芦名先生のお父様はやがて召され、フェーデル先生にとってはじめてのお葬式になったのです。3人の男の子を抱えたお母様がよく婦人会に来ておられたのを覚えています。弱いお子さんだったそうですが、フェーデル先生が匿名でプレゼントを続けられた牛乳のおかげで、ボクサーになれるほどのからだに育つことができた、というお話でした。先生の奥様は、その頃、婦人会でお見かけしていた小野井さん(入院しておられたので、午後お見舞いしました)の娘さんです。礼拝後のお茶の時間には、アメリカに留学していた方もおられ話が弾みました。その晩から、例年ではまだ降らないはずの雪が降り、車の屋根に10センチ以上も積もりました。南の方で借りた車には「滑り止め」の備えはなく、次の1日車を動かさず、山の方に行く予定もやめ、久しぶりに雪の落ちる音を聞き、近くの雪道を歩いて楽しみました。火曜日20日の朝には気温も上がってきました。浅虫を通って再び小湊へ行き、遠くは秋田など各地から集まって来られた方々と「朝祷会とブランチ」のひと時を持ちました。時間が早く過ぎて心残りでしたが、一度やんでいた雪がまた降り出したので、午後は早めに出発。花巻温泉に向かいました。愛川の里子さんから、雪を案じる電話を頂きました。実はこの後まだ2日ほど雪に悩まされるとはつゆ知らず、「もう抜け出したから大丈夫」と答えました。翌日は仙台と気仙沼の間の登米市に住んでいる弟を訪ねる予定でしたが、直前になって維子から「兄と連絡が取れない」という電話が入りました。とにかくアパートに行って見ました。カーテンの開いた所から覗いてもいる様子はありません。車もありません。心当たりのどこにもいません。後の日程があるので、仙台に近い大和町のホテルに泊まりました。妹と連絡を取りながら考え、翌朝になって警察に捜索願を出すことにしました。本来は出頭しなければならないのですが、特に受け付けて行動を始めてくれました。私たちは弟と会うことをあきらめて東京に向かうことにしましたが、25センチほども雪が積もって車は埋もれています。「滑り止め」のない車は高速道に入れません。近くに売っている店もありません。国道ならば車も多いし、除雪もされているだろうと4号線に出ました。大丈夫でした。昼近く仙台市内に入るころ、弟が救急車で市民病院に運び込まれていることが判りました。国道沿いですからそのまま駆けつけました。急性胆のう炎による激しい痛みで、宿泊先から運び込まれたのです。感染症を起こしており、手術をしようにも近くに身内がおらず、病院でも困っている所でした。色々ありましたが、神様のご配慮で全てが間に合って感謝でした。(弟はその後手術を受け、もう快方に向かっております。)諸手続きを済ませて夕方病院を出ると、また吹雪が強くなりかかっており、翌日の午後は東京で結婚式がありますから、せめて福島までは行きつきたいと、国道を雪の状態と温度の下がり具合に気をつけながら進みました。気温が0度になり、これ以上は無理かな?いうとき福島市内に入り、ビジネスホテルで1泊、次の日は天候も回復、高速道を快適に走り、結婚式には滑り込みセーフでした。結婚式は教会挙げての喜びの心が感じられるすばらしいものでした。娘を嫁がせた親のような感動を味わいながら、8時頃には愛川に帰り着きました。翌朝は、荷物を全部下ろし、里子さんを乗せて名古屋に向かいました。この日は、渡邉家の親戚の集まり(葛木会)が準備されていたのです。いろいろな都合で集まれたのは20人あまりでしたが、メンバーは百人を超えています。会の後、兄妹と身内だけで1泊する予定なので、7人乗りの車の出番になりました。みんなが大好きな鳥料理屋で夕食です。ここの料理はどれも美味しいのですが、鳥インフルエンザの問題が起こってから、ささみをさっと熱湯に通した「しらゆき」がメニューから消えてしまって残念です。翌日25日は、私たちの先輩であり親友の木下先生の「昭和橋キリストスト教会」の礼拝でした。日本の教会でも「新しい歌」がかなり使われていることを感じ、若い方々が喜んで賛美している姿を嬉しく拝見しました。ここにも帰国者のフォローに力を入れている方がいらっしゃり力強く思いました。しかも、留学から帰国したての若い年代というより、家庭を持ったその上の年代を考えていらっしゃるとのことで、帰国者も層が厚くなってきていることを思わされました。先生ご夫妻にお腹いっぱいのご馳走になり、五平餅の器材一式を受け取るために、もう一度一麦教会に寄りました。ちょうど松原先生も「一時退院」しておられ、再度お目にかかれて嬉しく思いました。もっとゆっくりしていたい思いを振り切って愛川に帰りました。実は、河野先生が忠雄の血液検査の結果を重視され、北里大学病院の専門医に紹介状を書いて下さり、翌日詳細な診察を受けることになっていたのです。診察と検査は午前中に終わり、次の予約を頂いて、軽井沢の恵みシャーに向かいました。ここでは、わざわざ金沢から出て来られた吉田敬子さんが待っていてくださいました。吉田さんも小湊のひかり幼稚園で働いていただいた方です。恵みシャレーの夜は、見事なイルミネーションが輝いていました。週末には大きなシンギングクリスマスツリーで生のキャロルが聞かれるそうです。翌日午前、中軽井沢の土屋文子さんがリハビリ中で出歩けない状態なので、お訪ねしてお話をして来ました。研修などで軽井沢には来ても、観光をしたことのない敬子さんを蒲原観音(鬼押出しの先、浅間山噴火記念館がある)、温泉、旧軽銀座等をご案内しました。足掛け3日、軽井沢を楽しんで、通いなれた野辺山経由のコースで愛川に戻りました。翌日は高校時代のバレー部OBの1泊旅行です。忠雄は北里病院での検査で別行動になりました。今回の企画は「晩秋の甲斐・信濃路めぐり」でした。新宿に集合して高速バスで長坂高根まで、そこから宿のバスで八ヶ岳山麓の「グリーンヒル八ヶ岳」まで行きました。ここは新宿区の施設だそうですが、すばらしい所でした。青春の一時期「バレーボール」で共に過ごした仲間、過ぎ去った55年余がスーッと消えてしまって若返ることのできる楽しいグループです。もう亡くなった方もあり、元気な顔が揃うとほっとします。これで旅行の計画は全て終わりました。新宿で維子と落ち合い、一緒に夕食を済ませてから愛川に帰りました。
12月1日にはレンタカーを返しました。この一月、5700キロ余事故もなく守られたことを心から感謝しました。夜はもと石川医院のメンバーだった方々とお食事会、若かった看護婦さんたちも子どもさんが結婚し孫ができた方もいます。幸せそうな顔を見られるのは本当に嬉しいことです。2日は厚木の福音自由で礼拝を守り、午後は新宿で石井昭子さんと待ち合わせ、横浜の中華街を楽しみました。5日には北里病院の医師から検査の結果、当面特に治療することはないという結論を聞きました。9日には浦和の福音自由教会の新しい会堂で礼拝後、中村圭子さんにすばらしいおもてなしを戴きました。
どうしてもお寄りできないで失礼してしまった所があります。ゴメンナサイ!
長くなりましたが旅行記を終わります。
郁 子