一麦:渡辺家のHP

アトランタ発第75便

2008・10・6

9月24日、丸一ヶ月振りに大旅行から我が家に帰って来ました。頭の中にはたくさんな宝物が詰め込まれたようで、何をどう書いたら良いのか、整理もつけられない思いですが、とりあえず、感謝をもって短くまとめてご報告したいと思います。

今度の旅行は、アイダホの州都ボイジーにいらっしゃるフェーデル先生ご夫妻をお見舞いするという当面の目的があり、それには忠信がマイレージで航空券を用意してくれると言っていたのですが、今年80歳になったダディーが「一度は、大陸横断ドライブをしてみたいと思っていたんだけど・・・」と、つぶやいたところから始まりました。今年は8月半ばから9月末まで特別な予定も入っておらず、健康的にも問題はありません。ガソリン代も下がり気味とあって、子どもたちの応援を受けて「無理のない、のんびり旅行」「新婚ならぬ金婚旅行」が実現することになりました。西部開拓史などに登場する地、アトランタとは2時間の差がある「山地標準時」を使う一帯は、多くの国立公園が在り、観光スポットには事欠きません。そのいくつかに立ち寄るとしてもそれは二の次、この旅の目的の第一は、60年ほど前に宣教師として来日し、永年日本の伝道に尽くし、今は引退し、各地に老後をお過ごしの方々、同窓の友たち、ダディーの従弟を訪問することです。そして、できれば二年ぶりにミシガン州とオハイオ州の日本人教会の方々にもお目にかかりたいと思いました。人に会うことが最高の楽しみと言えそうです。事前にいくらかの資料は集めましたが、予想もできない未知の所ですから、細かいガッチリした日程は組まない、教会以外の訪問先へはほとんど「前触れなし」に出かけました。

これまでの旅行の経験や、今回の旅の目的から、積み込んだ荷物は、一ヶ月間キャンプ生活ができるほどの物でした。大きなアイスボックスは食品庫として、途中では買えない日本食の数々、小さいアイスボックスは冷蔵庫として氷を入れて使います。炊飯器、電熱器、湯沸しポット、お茶櫃、中鍋一つ、小フライパン一つ、もち焼網、ボールにザル、海苔巻き用のすだれ等など。そして最小限の調味料の一揃え。それに、北の方に向かうのですし、秋が深まれば一気に寒くなることも考えた衣類と、日曜日の礼拝用の衣服をつめた大きなバッグ。そして日本語のニュースと縁が切れないように短波ラジオ(実はインターネットでNHKラジオのニュースが聞けたので不必要でした)と、薬関係が一箱。私はベッドが柔らか過ぎると背中が痛くなり、床に寝ることもありますので、毛布関係。そして、手近に置くものとして住所録、旅の間に楽しむ日本語の本や数字パズルの本も忘れられません。出発前に忠信がカーナビ(GPS)を買ったから持って行くように、と貸してくれました。頼子は旅行記録用に北米地図をAAA(日本のJAFのようなもの)で貰って来てくれましたし、預金口座の残高チェックを引き受けてくれました。

多くの方の応援・励ましを受けて、8月25日雨のアトランタを最初の訪問先テネシー州メンフィスを目指して出発しました。2年余り前までバーミンガム(アラバマ州)へ毎月通ったハイウエーI−20を進みましたが、I−65に入り北に進路を変えたころから、雨がひどく、跳ね上げる水しぶきで前の車が雲隠れしたような状況になり、暗くもなったのでアセンズ(アラバマ州)に泊まることにしました。「割引クーポンの付いたホテル案内」を手に入れて安いところを見つけるのですが、ひどい天気の中でそれもできず、近くに見かけた「クォリティー・イン」に駆け込みました。必要最低の荷物だけを下ろし、近くのレストラン「ルビー・チューズデー」で最初の夕食を済ませました。濡れたせいか、寒さを感じて暖房を入れました。幸いジャグジーつきの部屋だったので、ゆっくり温まって十分元気回復。2日目11時に再スタート。小雨が続いていましたがUS―72を3時間あまり(途中からミシシッピー州に入る)ひたすら西に走り、2時半、メンフィス(テネシー州)に無事到着できました。この玲子さんの家は、前に来た時、散々迷ったところなのですが、今回はカーナビ様々でした。取り扱いにも慣れてきました。玲子さんは先週、ご自分では「簡単な・・・」、とおっしゃっていましたが、二日間の入院をして心臓の周りの水を抜くという手術を受けられたところです。まだ思うように動けない状態でしたが、喜んで迎えてくださいました。しばらくお話をしてから、ダディーは「車のチェック」をして来たいと言って、玲子さんにマツダのディーラーを教えてもらい出かけて行きました。「エンジンの点検が必要」という警告ランプがついたそうなのです。ダディーのいない間に、日本語教会の光子さんとハンナさんが食事を届けに来られたのでお会いすることができました。その際、光子さんのご主人が脳下垂体にできた腫瘍の手術を受ける事になっていると伺いました(後の連絡で26日が手術と伺い祈っています)。お二人が帰られた後、ダディーが5時半ころ戻って来て言うのには「時間がかかるので、迎えに来る人がいるなら車を置いて帰れと言われた。しかし、それはできないので、明日の朝の予約をしてきた」との事。早速の足踏みです。そこは予定のない気安さ。今度はクーポンのある安い宿を探し、「デイズ・イン」に2泊するようにチェック・インしました。翌日の点検のため、車のすべての荷物を部屋に下ろし、はじめて自炊の夕食をとり、ゆっくり休みました。翌日は、9時の予約ですが、何時までかかるかわかりませんので、私は部屋に残って編み物です。ダディーは「足」が無いのでディーラーの待合室で待つことにして、勉強道具を持って出かけました。結局夕方5時半までかかり、走行に関係の無い不急のものは除いて、あちこちの手入れしてもらい、ほぼ千ドルの出費。車は手入れをされてご機嫌な様子です。

明日は2番目の目的地、リトル・ロック(アーカンソー州)にお住まいのリード先生ご夫妻のお見舞いです。夜お電話をしたところ「午前中なら」ということでしたので、10時に伺うと約束しました。3時間半はかかると見て6時半に出発しました。天気は雨ではないものの、霧か、もやで視界は悪く運転は大変。そんな焦りがあったためか、途中で「時差」を忘れ、アトランタ時間の車の時計を見て、「このままでは30分は遅刻する!」と思ってしまい、お電話をかけてその旨お断りしたのですが、何と一時間遅くて良いところなので、逆に30分早く到着というヘマをやってしまいました。ミセスがパーキンソン病で先生が介護をしていらっしゃると聞いていましたが、行ってみると、先生の方も足が悪く、外では頑丈な杖が必要で、家の中のことも週に3日くらい来てくれるヘルパーさんに頼ってという生活でした。私たちが伺った時は、ミセスがヘルパーさんに助けられ、やっと自分でスプーンを握って食事をしておられるところでした。ヘルパーさんが私たちにお茶を入れようと気を使ってくれましたが、結局どの茶碗を使うのか、どのお茶をどうしたらよいのかなど判らずうろうろするばかり、傍で気をもむミセスがお気の毒で、私は自分でお茶をいれました。そしてホテルで、朝4時から起きて作った「お稲荷さんと海苔巻き」のお土産を見せるとお二人とも大きな歓声を上げて大喜びです。私が軽井沢からフェーデル先生・キール先生と一緒に青森へ行っていた間に、牧実はリード先生と一緒に東京へ出て、JCC(日本クリスチャン・カレッジ、現東京基督教大学)を立てあげる仕事のお手伝いをしました。勿論、軽井沢にいた2年あまりの高校生時代は、私も先生たちとお付き合いがありました。その後、学校(JCC)に入りましたので更にお世話になったわけです。ミセスは長い闘病生活でお気の毒ですが、まだ日本語もお上手でいろいろお聞きになりたいご様子で話しかけられるのですが、先生の方は久しぶりの日本語をしゃべる機会が楽しくて仕方ないらしく、あれもこれもとしゃべり続けられる有様。というわけで、なかなか十分に情報が得られたとは言えないのですが、とにかく、お二人が十分に日本を思い出し、日本の香りと味を喜ばれたことは良くわかりました。私たちの訪問が少しでも先生方のお慰めになれたのではないかと嬉しく思いました。あまり、長くお邪魔するのもお気の毒で11時には失礼しました。それから前の日、壊してしまったメガネの修理のためウォール・マートに行きました。出発前に地図だけは新しくなければね、ということで、大きな全国地図帳を買いました。この「アトラス」には全国のウォール・マートが住所入りで載せてあります。それが、とても重宝でした。今回のように店に行きたい時は勿論のこと、「その地方に向かいたい」時にも、「方向を変えたい」時にもカーナビに希望する町のウォール・マートの住所を入れる事によって思い通りに方向を決める事ができました。ついでにこのスーパー・ウォール・マート(生鮮食品もある)では果物と野菜ジュースなどを買い込みました。結局この日は、それからアーカンソー州を出て、タルサ(オクラホマ州)まで行くことができ、7時には宿に入りました。ちょうど日本でダディーの妹里子さんの脊椎管狭さく症の手術が始まる時間でしたのでお祈りしました。ここからボイジー(アイダホ州)までは訪ねる予定の人はなく、立ち寄る予定の所もなく、ひたすら西を目指す道中になります。私はその日の記録に取り掛かりますが、ダディーはインターネットです。今回は、自室で「高速インターネット」が無料で使えるというのが宿探しの一つの条件になりました。一番安いランクのモーテルではだめですが、中程度以上のところではほとんど使える様になっていました。逆に高級なホテルでは有料になる傾向があるそうです。おかげでいろいろな連絡、報告などはすっかりダディー任せで、必要なことだけ私が手を出せば良く、大変助かりました。観光については、サウス・ダコタ州のバッド・ランヅ等国立公園を勧められておりましたが、私はひそかに一つだけ「できれば・・・行ってみたい」所がありました。それはコロラド州のデンバーから少し回り道になりますが、US−34を通るコースです。ロッキーマウンテン国立公園の中を通り、舗装された道路としては世界で一番高いハイウェーで、富士山に近い標高3714メートルを通ることになるというのです。自分の体力ではとても富士山に登ることは不可能だし、お天気でもよければこの際???という夢がありました。しかし、出発からずっと雨に降られ、天気予報ではハリケーン情報が毎日放送されています。しかし、とにかく、デンバー(コロラド州)まで行ってから決めることにしました。

ということで5日目の29日はデンバーを目指しました。今日は頼子の試験の日です。難しいCPA(公認会計士)の試験で、最後の1科目を受けるのです。時間は聞きませんでしたが、第一のお祈りでした(帰宅した後、合格がわかり大喜びしています)。時計(腕時計・車のも)の時差は直さないで、現地時間は携帯電話で見ることにしました。アトランタ時間10時(現地時間9時)にチェックアウトして出発。すぐにオクラホマ・ターンパイクと言う有料(と言っても、数箇所の料金所で50セント〜1ドル程度を払う)道路に入りました。やがてカンザス州に入り、ウィチタを通ってI−70に入り、まっすぐまっすぐの道をひた走り、途中見つけたガソリン・スタンドについているKFC(ケンタッキー・フライド・チキン)とタコベルの店でお昼をすませました。写真を撮るにも変化のない、同じ景色が続きます。でも私には空一面に沸いている雲が嬉しくシャッターを切り続けました。それにも飽きて、この地の先住民インディアンたちの生活に思いを馳せたりもしました。はるか地平線まで広がる広い大草原ですが、水が見えません。視界に変なものが見えると思いましたら井戸堀のやぐらを2,30台並べて売っている所でした。掘っているのも見えました。聖書に出てくる「井戸を掘る人イサク」が思い出されました。州を越した所にあった小さなウェルカム・センターには先住民・インディアンの4大酋長の大きな写真が飾られていました。太陽が傾きそろそろこの辺りで泊まることにしたいと考えたのですが、それから更に1時間以上、宿の看板は一つもなく、クーポン・ブックにも、デンバーの地域に入るまではホテルはありません。デンバーの一軒の宿を目標に選んで、走り抜くことにしました。とっぷりと日が暮れましたが、カーナビ頼りに初めての道をたどり、無事に着きました。この旅一番の強行軍の日でした。

さて、翌朝、文句なしの快晴です。11時(マウンテンタイムでは9時)にチェックアウトして出発。富士山に登る気持ちで暖かいものを身につけ、ガソリンを満タンにして公園の玄関口のような「ライオン」に着くと、さすがに観光地の香りで人がいっぱい、ツアーバスも見えました。ところが驚いたことには公園地帯に入っているのに学校があり、ワイナリー、ポスト、住宅もあるのです。山道に入る所にお金を払う門がありました。「5日までが20ドル」と書いてあるので、1日で1回通過するだけだと言ってみたのですが、1日から5日までがこの値段なのだと説明されました。小学校6年生の時、白地図に書き込みながら覚えた「ロッキー山脈」の南の先に当たるのだろうと感慨深く思いました。道路は舗装された良い道ですがひとつの山ではないので、上ったり、下ったりしながらだんだん高くなりました。周りには高い峰峰が立っているのでそんなに高くは感じないのですが、時々見える深い谷を見れば高いのがわかります。実は、私は自分が高所恐怖症であることをそれまで忘れていました。車がガードレールもない崖の側を走ると冷や汗が出てきました。特にカーブがひどい所は25マイルに制限されていますが、他はほとんど35マイル制限です。戻るわけには行かずやっとの思いで一番高いところにあるアルペン・ビジター・センターに着きました。ところがすぐそばに万年雪の雪渓があるのに少しも寒くはないし、あまり、見晴らしが良いわけでもありません。頂上ではないからです。ここからいろいろな峰に歩いて上る登山ルートがあるのです。ここでチリドッグとココア、チキンスープを食べてお昼です。外に出ているといくらかフラフラしますし、あまり気分もよくないので、これは早く降りたほうがよさそうだと、すぐに下りにかかりました。途中バイクや自転車の方も見られ「若さ」に脱帽でした。 出口に出るまでがまたまた大変でした。ここの山の木はほとんどが杉ですが、はじめはちらちらと茶色の木を見かけたくらいでしたが、そのうち一山全部茶色に見えるものまで出てきました。水不足で枯れたか?とも考えましたが、隣の別種の木は青々としているのですからそんな筈はありません。虫か病気でしょう。下に近づくにつれて本当に哀れな杉山になり、健康な木なんか見られないほどで心が痛みました。これはアメリカの国あげての問題だと思われますが、これからどうするのでしょうか。やっと、山から抜け出してI−80に入り、ワイオミング州です。「大草原の小さな家」のお話に出てくるいろんな場面が目に浮かびました。まったくの平原で遠くに牛と馬が見えます。車はほとんどすれ違うこともありません。レスト・エリアもありません。乾いた草の塊(これで生きているのですがまだ小さい)がコロコロしています。そのうち牛や馬さえ見えなくなり、広いことは広いものの荒れた土地で、手のつけようもない土地に見えます。固い同じ草?が見渡す限りを覆いつくしている景色です。とうとう私たちは道端に車を止めて一休みしました。太陽が沈んでいきますが目の前にはずっと先まで道が見えるだけ、どこまで行ったら何か見えてくるのだろう?と思ったくらいです。そのうち、長い長い貨物列車が走っているのが見えました。線路があったのです。130輌もの貨車が付いています。やがて草原が変わって変なものが見え始めました。大きな岩のテーブルみたいなものですが、そのへりにはカーテンをたたんだ様な縞模様が見えます。大きな山の上を切り取ってアイロンをかけた様に見えます。やがて、ごつごつした岩も見えるようになってしばらく行くとちょっとした町らしく、いくつかの看板が見えてきました。ロック・スプリングスと言う町です。暗くなったのでここに泊まりです。

翌朝は日曜日。雷が鳴り、雨が降っています。ホテルによっては、設備やサービスの案内と一緒に、近くで礼拝できる教会が紹介されているのですが、ここにはありませんでしたのでインターネットで教会を探しました。こんな小さな町に教会があるかしら?と思いましたが6つもありました。宿に近い教会に決めて、外に出てびっくりです。これは絶対、世界遺産に違いない!と思う様な景色なのです。思わず叫んでしまうほどの景色でした。まさにロック・スプリングス、美しい岩の国でした。小さな教会で楽器もない礼拝でしたが、30人くらいの人が歓迎してくれました。その後、ホテルの朝ごはんに遅れて食べられなかったので、走り出す前に見つけたゴールデン・コラールのバッフェ(日本で言うバイキング)でお腹の準備をし、しばらくこのすばらしい景色を楽しんでからユタ州に向かいました。ロッキーへ行ったころからダディーの右足のくるぶしが痛み出したそうですが、通風ではないというのでシップと飲み薬で抑えていました。良くなって来ていたものの、この日は早めにソルト・レークの近く、オグデン(ユタ州)に宿を取ることにしました。ビジター・センターではユタの四季風景をビデオで鑑賞しました。

翌朝は雷の音で目覚め、ひどい雨の中を出発しました。60マイル(100キロ弱)程度でゆっくり走りますがライトをつけた前の車も良く見えないくらいです(因みに、今までに走った東部・中部のハイウェーは、制限速度が最高でも時速70マイルですが、オクラホマ・カンザス州から西では75マイルです)。窓の外はまた岩山、荒地の続きが見えます。3時間くらいたち、やがて雨はやみましたが、同時に目に入ってきたのは広い広い畑とおびただしいスプリンクラーの数々。その時、昔、神さまがイスラエルの人々に「よい地」を与える約束をされた時「水の豊かな地、自分で水をやらなくてもよい地」(申命記 8:7、11:10)と表現されていることを思い出しました。2時近くなってガソリンの補給と同時にサンドイッチとゆで卵を買って、食べながら更に走りましたが、6時(現地の4時)頃、この旅の初めての渋滞に遭遇、この日が「レーバー・デー(労働者の祝日)」で、3連休の最終日。行楽帰りと見える家族連れの車が多かったのですがほとんど停まった状態になってしまいました。1時間半くらいかかって、次の出口から警官の誘導で一般道に出され、少し離れて並行する畑の中の道を次の入り口まで迂回させられました。そこにはテレビの中継車が来ていましたから大きな事故があったのだと思います。結局ボイジーに着くのも遅くなり、フェーデル先生の家の近くにホテルを見つけ落ち着いたのは現地の8時過ぎ。電話で連絡の結果、明日10時半に先生が迎えに来て奥様の入院している病院(リハビリセンター)へ連れて行って下さることになりました。状況が分からないので、とにかく明日はお目にかかることだけを考え様と思いました。この前、一月にお邪魔した時に、どうしてもお元気な先生たちのご様子をビデオに収めたくて、忠信にカメラを借りて行って撮影したものを、先生方と、この後お訪ねするキール先生にも差し上げようとコピーして持って行きました。奥様のピアノ演奏は特にすばらしく有名でした。それは本当に神の賜物で人に教えることができなかったのだと言います。また、それがまったく記録に残されておらず、私の素人映像だけでも残すことができて本当によかったと思いました。

さて、翌日、先生は思ったよりお元気そうでしたが、病院の奥様は、ただ黙って座らされているだけ。ダディーの手を握っておられるものの、はじめは私を認識できなかったようです。でも、そのうち梅干あめを持たせて食べるように勧めると、こわごわ口に入れられましたが、突然「オ・イ・シ・イ」と日本語が出てびっくりしました。その後、はっきりしてきたようで、「ウ・レ・シ・イ」も聞くことができました。先生はそれまで付き添っていたマルコの奥さんリンダと交代しました。夕食はマルコの家でということになり、私たちは一度ホテルに帰り「稲荷ずしとのり巻き」の作成です。時間があったので、ウォール・マートに行って、常用薬を買い、ついでに折鶴にする色紙を買って来ました(これは翌日、千羽鶴の代わりと説明をして病院に持って行きました)。夕食にはリンダの配慮で、フェーデル先生のひ孫のエライジャも連れて来られましたので半年振りに再会することができました。やっと歩き始めたところでかわいい盛りです。「稲荷ずしとのり巻き」も大好評。マルコは油揚げが本当に懐かしいと喜んでいました。二日目、奥様はもっとはっきりしていて、さわやかなお顔でした。でもあのすばらしい笑顔はありません。ジーッと何かを見てしばらくしてボソッと言葉が出たり、うなずいたりされます。周りでの先生と私たちのやり取りも、いくらか理解されたのかもしれません。お部屋に小型のキーボードも置かれ、音楽療法士が午後から来られるということでした。ビデオでご自分の演奏される映像もお見せしたのですがあまりピンと来ない様でした。お別れの時にはみんなで「また会う日まで・・・」の賛美歌を歌いました。奥様も一緒に歌っておられたようで、唇が動いていました。先生にはこれからもつらい日々が続くのかと思うと言葉が出ませんでした。帰ってからのことですが、長男のスティーブが骨癌になって、手術の経過も思わしくないというニュースが入りました。こんなに誠実にご奉仕の生涯を歩んでいらっしゃる方なのに・・・と思いましたが、神様のご計画はどういうことなのだろうかと思いながらお祈りしています。フェーデル先生と、青森まで一緒に行って働いた本当に仲の良いキール先生は、もう91歳になり耳が遠くて電話での話もできなくなってしまったと言われるので、私たちがテープに吹き込んだメッセージをお届けすることにしました。先生は「人間とはこういうものに造られている・・・」とおっしゃっていましたが、私たちはそれでも、その向う側に希望を持てることを感謝しました。バッド・ランヅに寄るつもりでしたが、カーナビが案内してくれる道がイエロー・ストーン国立公園のそばを通る道でしたので、それで充分という気持ちになり計画変更をしました。それで、25年前になりますが、そこにフェーデル先生がいらした時、お訪ねしたことのあるディッキンソン(ノース・ダコタ州)に寄ることにしました。ボイジーの病院をお昼に出た私たちは、先ず近くの中華料理店でお腹を満たして走り出しました。途中少し大きな町があったので、ハイウェーを出て自動車屋を探し、先が折れてしまったワイパーを交換し、その日はポカテイロ(アイダホ州)に泊まりました。

翌日、国立公園の入り口の一つウエスト・イエロー・ストーンを通りました。お土産屋が並んでいるこの町でお昼を食べ、公園の景色のDVDを買って先を急ぐことにしました。この日はボウズマン(モンタナ州)まで。次の日はロッキー山脈を横断するように東に走ります。このあたりは全部森林公園だと言えそうです。ただその広いこと、どこまでもどこまでも上ったり、下ったりが続きます。ここの杉にも少し枯れているものが見られましたが、まだまだ元気そうでした。結構山の奥に入っているのに、あちこちに牛や馬の放牧風景が見られました。初めてホルスタインの群も見ました。黒いのは「肉牛」なのでしょう。面白いことに牧草の塊が南東部では、北海道のように円筒形に巻かれていますが、カンザス州辺りから西では、積み木のように長方形に固められていました。この地方はまた丸くなっています。川が豊かに流れ、水も美しいところでした。鉄道が通っており、25年前にこの山の中を列車で走ったことを意識させられました。あるところでは電柱が角材で立てられていました。モンタナ州を抜けノース・ダコタ州に入りました。このI−94はとてもきれいだと言われましたが、すばらしい眺めです。お天気も最高、空は一面雲のキャンバスです。Kマートを見つけましたので飲み水などを買いました。目的のディッキンソンに到着です。ハイウェーを出てすぐのところにホテルを見つけました。

翌朝、宿を出て探したエバンゼリカル・バイブル・チャーチはすぐ近くにありました。でも、25年前の感じを思い出すことはできませんでした。いろいろ変わったのかもしれません。そのまま、アレキサンドリア(ミネソタ州)まで、ノース・ダコタ州を完全に横切って走りました。期待していた枯れ草のボールは見られませんでした。前回は10月はじめで、季節が違うからでしょう。キール先生のお宅の見当をつけてからホテルを決めるつもりでしたが、カーナビのご機嫌が悪く、行き止まりの道路に連れて行かれてしまいました。それで、今日は探すのを諦めて、アレキサンドリアに泊まることにし、「モーテルUSA」という宿を見つけました。明日は日曜日ですから、ここで2泊することにしました。

キール先生のお宅が見つかることを信じて、朝早く起きて「お稲荷さんとのり巻き」を作ってアイスバックに入れて、先ず礼拝に行きます。キール先生が出席される教会がわからないので、インターネットで調べて、今まで出席したことがないルーテル教会へ行くことにしたのですが、結果的にそれがキール先生の家に一番近い教会でした。私たちの慣れ親しんだ礼拝と違い、儀式的で少し戸惑いましたが、聖餐式にも与かりました。前の日にはうまく案内できなかったカーナビでしたが、今回はちゃんと玄関前まで案内してくれました。ところが前もって連絡してあるわけではありません。こちらの都合だけでなく、電話をしても、耳が遠くて会話は無理だと聞いておりましたし、お年寄りを混乱させないためにも、お留守だったらあきらめようと初めから考えていました。さて、どうしようか、と思っていると、赤い自動車がスーッと車庫に入って行きます。先生たちでした。ちょうど良かったのです。お二人とも大変喜んで迎え入れてくださいました。先生の癌はすっかり消えて、見たところお元気そうです。お土産の「稲荷ずしとのり巻き」をみんなで食べましたが、奥様は「おいしくて止められない・・・」と悲鳴をあげていました。先生は、フェーデル先生からのメッセージ・テープを真剣な顔で聞いておられました。お二人ともミセス・フェーデルの病状を聞き、写真を見ては涙ぐんでおられました。奥様は、アルツハイマー症とは思えないほど、英語ではありますがいろいろ知りたがって私のブロークンな英語でも話が弾むのです(すぐ忘れるそうです)が、先生の方は、その私たちの話に入ってくることができず、ダディーに話しかけるのですが返事が聞きとれない、とあって会話が困難の様子です。耳に当てるだけで良く聞こえる日本製の「ヒアリング・ヘルプーD」という物を差し上げようと持って行きましたので、説明するのですが良くわかりません。結局、奥様に説明し、3時間くらいで失礼しました。奥様はなぜ帰るのか、そんなに急がなくても、と盛んに引き止めてくださいましたが、老夫婦にとっての限界だと思いました。車に乗ってからよ〜く考えてみると、本当に私たちだと認識されたのかどうか疑問が残りました。でも、「日本を思い出し、懐かしい気持ちになられたのは確か」でしょう。5人の子供たちのうち4人が宣教師になって外国にいます。一人だけ病弱で結婚もせず、近くにいますが先週は、釣りに連れて行ってくれたとか、楽しそうに話していらしたのが印象的でした。宿に帰って荷物を片付けてから町を見物で一回り。ちょっと休んでから夕食は、ホテルの入り口にあった炭火焼グリル「ドゥ・リットル」に行ってみました。ダディーは店の名前が、日本の本土を初空襲した爆撃部隊の指揮官に由来しているのではないか?と言いましたが、果たしてそうでした。なかなかムードのある良い店でした。

さて次に訪問するのは隣の州ウィスコンシンです。ユウ・クレアまでは3時間あまりで行けそうですから、朝お土産を準備して、チェックアウト時間までゆっくりして出かけました。ここでも、私たちが到着した時、ショーン先生たちはお留守で、さてどうしようかと考えていると、向こうの角を曲がって車が・・・「もしや?」と思ったら、それが病院から帰ってこられた先生の車でした。私たちの高校生時代、一番我が家に出入りの多かったのはショーン先生だったでしょう。 軽井沢時代というのは宣教師たちにとっては日本語を学ぶこと、任地を探して待たなければならない時期でした。しかし、ショーン先生はここから出て行くのではなく、ここで父「パスター・オゴシ」を通訳としてつかまえて、毎日のように連れ出し、キャンプの土地を探していました。そしてついに松原湖に坪50円という値段でキャンプ地を手に入れました。松原湖バイブル・キャンプは50年の記念行事も過ぎましたが、日本の伝道に、とても大きく役立っています。同盟教団の牧師の60%はここから出たのだそうです。という訳で私たちも第1回目から参加しましたし、うちの子どもたちも毎年送り込まれていましたから懐かしいところになっています。ショーン先生の奥様もどうやら多少足腰や言語がご不自由な様ですが「38年間の、日本での宣教師の生活は本当に楽しかった」と言って下さいました。先生の日本語も確かなものでいろいろ日本の現状についても話すことができました。日本にいらした時、養子に迎えたデービッドが良い家庭を作って近くに住んでいるということを聞き、嬉しく思いました。ショーン先生の家で働いていた軽井沢の土屋文子さんを始め、共通の知人もたくさんいますので話が尽きることはありません。ボックスから武田家のカードも取り出して来て、あそこには何年と何年、3回訪問したことが書いてある、とおっしゃり、その正確な記録、整理振りに驚かされました。私たち生越家の兄弟の一人一人がどうしているかも尋ねられてびっくりしました。楽しいお交わりを感謝して夕方失礼しました。勿論お土産のおすしは大喜びされ後からご丁寧なお礼状をいただきました。すぐにフェーデル先生にも喜んで手紙を出されたそうです。ここでは「カントリ・ヘルス・イン」に泊まりました。多くの宿にもプールやフィットネスの器具がありますが、ここは「ヘルス・イン」と名乗るだけに、プールも大きく、健康ランドのような設備でした。この辺からまたクーポン・ブックで安い宿を探すことができるようになりました。

翌日は同じウィスコンシン州の中のマジソンにお住まいの同窓生、家名田さんご夫妻訪問です。宮崎の教会を引退されて、私たちと同じように老後を二人のお嬢さんたちの近くで暮らしていらっしゃいます。何回も手術を受けられていますので心配していましたが、思ったよりお元気で安心しました。午前中は病院だった様ですが、2時半に到着した時には、三日前にお嬢さんから贈られたというかわいい子犬のチビと一緒に迎えて下さいました。宮崎でお世話になったこともありますし、こちらの生活の中で「医療保険問題」など共通の話題もたくさんありました。この地域での伝道のお働きについてもいろいろ伺うことができました。帰り際にはお庭を見せていただき、畑の完熟トマトをおねだりして車の中で食べましたが、とてもおいしかったです。

明日はシカゴ(イリノイ州)です。都会に入るのでちょっと緊張しましたが、ホイートンは静かなところでした。ゆっくりシカゴ見物をすることも考えたのですが少々疲れてきましたので寄り道は次の機会に譲ることにしました。ここでの訪問はエクアドルで長年放送伝道をされていた同窓の尾崎さん訪問です。奥様の久子さんが召されて、その後どうしていらっしゃるかが気になっていました。久しぶりの尾崎さんはお元気そうで、お嬢さんのご家族とつながったお住まいで、かわいいお孫さんのお世話をしながら、今も土曜・日曜に短波ラジオで放送を続けていらっしゃるそうです。地下にできたスタジオを見せていただきました。ダディーとは昔日本のPBA(太平洋放送協会)で一緒に仕事をしたことがあって「お茶の淹れ方にうるさかった・・・」とおっしゃりながら上手にお茶を淹れてくださいました。私たちに日本茶が切れた事を知って、お土産にいろいろなお茶を下さり感謝でした。それにしても「運転はしない、外出すると編集の時間がなくなるから」とおっしゃったのにはびっくりしました。このアメリカで、男で運転しない方は本当に珍しいことだと思います。ここまでで目標にした個人的な訪問は終わりです。13日(土)から17日までミシガン州の中で2回の礼拝、2〜3回の家庭集会が予定されています。少しでもミシガンに近づいてゆっくりしようと動き始めましたが、そこから北に向かうI−65が工事中で閉鎖されており、カーナビが混乱してしまい、同じ所を3回も堂々巡りする有様。今日はここまでと決めてメリルビル(インディアナ州)に一泊です。翌日あらためてI−65を避けるようにカーナビをセットしてミシガン州に入りました。ミシガンの中で最初に行くのはバトル・クリーク、次がアンナーバー、そしてグランド・ラピッツです。それぞれの位置を頭に入れてから宿探しにかかりましたが、はじめに考えたミシガン湖の傍のベントン・ハーバーにはインターネットを使える宿がなく、次に探したカラマズーは何かの催しがあるらしく、どこも満室。そこでコールド・ウォーターを探すことにしました。途中で日本食の看板を見つけたので、うな重と握り寿司を買い、お昼時間になった頃、駐車場に入ってお寿司で昼食。やっと宿に着いたときは疲れはて、そのまま一眠りしてしまいました。うな重を部屋の電子レンジでチンして夕食にしました。しかし、このうな重のご飯はすし飯のようです。珍しいものを食べました。翌日は久しぶりの雨。窓の下には月見草が咲いています。朝食はホテルのドーナツとジュース。2泊するので荷物の整理をしました。明日から2泊はお友達のお宅に泊めて頂くので、自炊道具など不要の物を奥に入れ、衣類も気温を考えて必要なものだけ小さいバックにまとめることにしました。昼食を食べに出かけ、ウォールマートで買い物もしました。グランド・ラピッツの佐々木さんのお嬢さん陽子ちゃんは、長い闘病生活をしています。何か、お土産をとずっと考えていたのですが、品選びを間違えると、かえって心を傷つけることにもなります。祈りながら「ビーズ細工の本」と大きめのビーズ・セットを用意しました。それと、メールでご主人が亡くなられたことをお知らせいただいた上野高校バレー部以来の友児玉知子さんのためにカードを買いました。雨の中、静かな時を与えられて感謝しました。

9月13日、バトル・クリークでは、アメリカ人の教会で1時からの礼拝です。ダディーの説教は同時通訳もつけてくれましたので、礼拝後のお茶の時間には何人かのアメリカ人からも挨拶を受けていました。私は、中島先生が夜のバイブル・スタディーの方は私が通訳をするのであら筋を聞きたいとおっしゃるので15分ほどお話をしました。その後、水田さんのお宅に向かいました。この前にも泊めていただきましたので懐かしい思いがします。相変わらず大勢の方があちらこちらの部屋にくつろいでおられます。与えられたお部屋で一休みした後、皆さんの中でおしゃべりをしていましたら、トルネード(竜巻)警報が出たので、「地下室に避難」という一場面もありました。怖がる子供たちを元気な賛美で力づけるうち、何事もなく解除になりました。ただカラマズーからの10人くらいが遅れて出発したという連絡が入りました。集会が始まってからウェスト・ミシガン大学の学生さんが到着した様子です。これはご主人の幸直さんが教えておられる関係で、外国からの学生にお家を開いていらっしゃるためです。ここでは部屋の関係で見えないところにも大勢人がいるので出席者が何人か、数えることはできません。この時も見えないコーナーで通訳がつけられていました。終わってから何人ものアメリカ人の方から良い学びだったとお礼を言われました。勉強が終わっての食事会は賑やかです。この時は人数を見て、途中でおそばが追加で用意されていました。でも皆さん慣れているらしく、何事もなかったようにご馳走になっています。2匹の大きい犬も年を取って「どたっ」としていますが、人懐こくかわいいです。翌日は水田さんご夫妻と一緒にアメリカ人の礼拝に出席し、帰宅してお昼をいただき、1時には、次の3時からのアンナーバーの礼拝に向かいました。宮崎先生がジョージア州に移られて、今は無牧の状態ですが、皆さんが力を合わせてがんばっていらっしゃいます。前回、皆さんとご一緒にレストランに行った時、あるご夫妻が、養女として迎えたばかりの「二人の女の子」を連れて来られていて、昔の「自分と牧実」の姿を思い出したのですが、今回はその二人が大きくなって駆け回っていました。早めの夕食を日本食のお店でご馳走になってから、これまた懐かしい曽根岡さんのお宅に向かいました。この家はある方が宣教のために設計されたという家で、集会をすることもでき、キャンプ場の様な雰囲気もあります。外には大きな池があり、周囲を散歩したり、ボートにも乗ったりできます。雨上がりで足元が悪い、と言われて出ませんでしたが、すばらしい景色を眺めながら楽しい会話に時間を忘れる思いでした。次の予定、グランド・ラピッツの集会は翌日ですが、その前日のその日、佐々木千恵子さんが介護のお仕事に出られる3時前に伺うお約束になっていました。お名残惜しい思いで12時半には出発しました。佐々木さんのところで、陽子ちゃんのお土産を出したとたんに「どうして??」「どうして判ったの?」と言われてこちらの方がびっくり。実は陽子ちゃんが今このビーズに夢中になっているのだそうです。手の感覚はない陽子ちゃんですがケースワーカーに手伝って貰っていろいろ作って楽しんでいるということでした。後日、陽子ちゃんが不自由な手で一生懸命書いたお礼状を頂いて感動、喜んでいただけて感謝でした。予約しておいてくださったホテルに泊まり、翌朝は10時から婦人会ですが、佐々木さんの強いお勧めもあり、9時には伺って朝ご飯からご馳走になりました。そもそも、一番初めに私をミシガンに招いてくださったミセス・ネットランドがここに住んでいらっしゃり、ここで婦人会を導いていらっしゃいました。私とは「今度で3回目」という方にもお会いすることができました。皆さんの持ち寄りでおいしいお昼をいただき、また来年も来てください、と言われて嬉しく思いました。ここの神学校を今年卒業した井上先生がビザの申請中ですが、うまく行けばこのままご奉仕してくださることになりそうで期待しています。奥様の春菜さんは5ヶ月の羊太郎君のために、私の本を買って学んでいてくださいました。しばらくの時間でしたが牧師夫人としての問題についてもお話しすることができました。この日、一人の方が新しくクリスチャンとなられ、一同喜んだことでした。夜、話しを聞きに来たい方もある、との事で午後ちょっとお昼寝をさせていただきました。夜も良い学びの時を持って9時ころ、佐々木さんとも名残を惜しみつつお別れしました。翌日は、ミシガンを離れる前に、ミシガン湖を見たいと思い、サウス・ヘブン(観光地)に行きました。本当に大きな湖で向こうは見えません。海の様です。ハリケーンの名残で波が大きく打ち寄せていました。砂浜が白く光っていました。お昼は100年前から続くレストランで、年間11トンも料理するという「店お勧め」の小魚のフライをいただきました。途中何回か試みながら来たのですがダディーの従弟の河合喬史さんと連絡が取れず、ここで、予定を変えて先にケンタッキーの創造博物館に行くことにしました。南下する途中、通行が遮断されて回り道をさせられたところがありましたが、これは「ミシガン湖があふれて洪水が起こっている」と聞いていたことの影響のひとつだった様です。やっとI−65に入り南に向かい、ラファイエット(インディアナ州)で一泊。部屋に入ってパンフレットをいろいろ見てみますと、ここは忠信が助手をしながら大学院で学んだパデュー大学の町の様です。まずはカーナビで日本食の店を探して「心」で夕食です。オーナーの日本人のご夫妻が懐かしげに話しかけて来られました。翌日はパデュー大学の中をひとまわりドライブして写真に収めてから、念願だった創造博物館に行きました。その日は入館せず、翌朝改めて見学です。最新の科学と合わせながら「創造論の立場から」宇宙の歴史が説明されています。日本は世界で一番、進化論が定着しているそうですが、その矛盾点も多く指摘されています。ダーウィンの進化論は仮説であり、完全に証明されたものではないのですが、今では宗教と同じ様な力を持っているのだそうです。この博物館は昨年建てられたもので、まだ日本語での説明がありません。今、検討が進められているそうですから、そのうちに良いものができることでしょう。プラネタリウムの説明や、恐竜の説明は是非、日本語で聞きたいものだと思いました。お昼は中にあるレストランのテラスで簡単な食事をしながら、将来、この外に建つと言う実物大のノアの箱舟に思いを馳せました。翌日、私たちはダブリン(オハイオ州)の礼拝に出るため、再び北東に走りました。教会の近くのホテルで炊飯器を使いお赤飯とゆで卵を作りました。V8の野菜ジュースとゆで卵は旅の間大変役立ちました。

21日の礼拝、久しぶりに杉田先生にお目にかかれました。アトランタから行っている孝子さん、テネシーに来ていた石田さんなど懐かしい方々もいらっしゃいます。新しい若者の賛美を楽しみ、心づくしのお昼をご一緒に、いろんな方とお話する機会も与えられ楽しい一日でした。その後、やっと連絡のついた従弟の喬史さん、和美さんを訪ねてデイトン(オハイオ州)に向かいました。連絡がつかなかったのはハリケーン・アイクの影響で猛烈な風が吹き荒れて、たくさんの木が倒され、停電が続いていた為だと判りました。河合家は5日間の停電ですみましたが、まだ続いている所もあるということでした。この新しい家にははじめての訪問でしたが、一級建築士の喬史さんの作品が隅々に見られ、とても楽しいお家でした。夕食には庭のバーベキューの炉で焼いたホイル焼きをご馳走になりました。この炉は大変珍しいものでした。そこに模様のような切り抜きがあるのですが、それが、「ヘブル文字」で「ガザ」と書いてあるのだと教えてくれた方があったそうです。翌日和美さんの案内でご近所とこの町を見せていただきました。倒れた木の始末の為、他の州からもたくさんの車が駆けつけて来ているということでした。この町は飛行機のライト兄弟出身の町であり、その後、自動車や機械物(お店のレジなど)の町として発展してきた所ですが、今は次を模索中だとか。プラスチックでコンクリートに代われるものが考えられているそうです。お昼をいただいて出発。そのままロンドン(ケンタッキー州)で泊まり、次の日は、ギャタリンバーグ(テネシー州)に泊まり、グレート・スモーキー・マウンテンを越えてジョージアに帰ってきました。最後まで紅葉を期待しましたが、ちょっと早くて「秋の気配」を感じて我慢しましたが、ちょうど一ヵ月(三十泊三十一日)で20の州を回った6900マイル(11000キロ)を無事に守られ大感謝です。

皆様に祝福がありますように!                

郁  子

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