一麦:渡辺家のHP
アトランタ発第80便
2009・6・6
初夏!ですね。世界中を心配させた新型インフルエンザ。「マスク」不足で、「手土産になる」とは笑えないお話でしたが、どうやら下火になりつつあるようです。皆様の周りはいかがだったでしょうか。我が家の関係では、あのニュースが始まったのと合わせるように、忠信の日本出張があり、どうなることかと思いましたが、30日無事に帰ってきました。タダ、学校訪問や先生を訪ねる目的ですから、いくらかの予定変更はあったようです。
ところで、5月は「アトランタ便」をまたまた書くことができませんでした。79便でダディーの風邪?について書きましたが、それに続いて、私も胃腸に来るという風邪?に見舞われ、10日ほど臥せってしまいました。その後、糖尿病の「血糖値のコントロール」がうまくいかないで、度々低血糖に見舞われ、半病人かツワリ?症状で過ごしました。「糖」と言うと肥満の原因で敵視していましたが、今回は「糖」が下がることによって体調不良もさることながら、精神的に不安定になったり、極端に自信を喪失したり、頭の回転が非常に悪くなったりすることを知りました。時には「老人性の躁鬱」に落ち込んだかと思ったほどでした。幸い私の場合、その病状を客観的に眺める「自分」がおりましたので、「勉強になった」なんて言えるのですが、前よりいくらか弱い方々を理解することができるようになったのではないかと思います。
インシュリンを減らして血糖値を少し高めにして見ましたら「あの変な体調は何だったのかしら」と思うくらいに回復してきました。この頭のストライキ状態の中で、食事のことを中心に日記をつけ始めました。同時に頭の運動として前にやっていたことですが、できるだけ一日一つの短歌つくりを目指すことにしました。
見上げるは移住記念に種蒔きし あの白桃なり 小さき初実かがやく
三年の花壇つくりが報われて、わが花園にテッセンの群れ咲く
ままならぬ体調いささかもてあまし しきりに思う天国に着く朝
スーパーで「アーユーマム(お母さん)?」とレジ係 「おめでとう」受けて驚く母の日
もう少しちゃんとしたものができるように、少し勉強してみようかと思っています。
10日の母の日はウエストミンスター教会で恒例の「男子会によるバーベキュー」がありました。お一人暮らしの方々の嬉しそうな顔がことさらに意味深く眺められました。最近、近くに新しい中華料理の店がオープンしたのですが、そこには大好きなピータン入りのお粥や、日本的な味の「酢豚」もあります。また少し遠い中華マーケットの近くにも新しい中華の「ホット・ポット」専門店がオープンしました。日本のしゃぶしゃぶみたいなものですが、基本のたれ(沙茶醤)に生卵を入れ、そこに好みのいろんなものを入れて自分の味を作ります。そこには40から50ものスパイス用素材が並んでいますが、今回、私は赤味噌味、しょうが味、ゴマ油、などなど5,6種類入れ、結構おいしいものができました。分らないものもたくさん有りますがなかなか挑戦する勇気は出てきません。また鍋には水ではなく肉、野菜、その他のスープが沸かしてあり、野菜がとてもおいしくいただけます。経済停滞はアトランタも同じで工事の中断などもあちらこちらにありますが、開店が長々と延期されていた日本風の居酒屋と銘打った和食の店もやっとオープンしたと聞いています。
久しぶりに家に帰っての楽しみは溜まっている手紙があるときです。今回は学校の同窓生の機関紙「ロバの耳」が待っていました。みんなの近況を知るのは楽しみです。ただ今回は「伊藤まさ先生召さる」の記事がありました。昨年帰国した時、お目にかかって「次は天国でね」とお別れしてきたのですが、何時までも見送っていてくださったお姿を思い出しました。すぐに「先生の思い出」の原稿を書きました。その前に福井県鯖江市で伝道していたマーチン先生が召されたことを聞いていましたが、記念誌の原稿依頼も来ていましたので、それも、書き上げ、「ロバの耳」次号のために準備しました。17日にはノークロス教会でハンドベルのコンサートがありました。酒巻先生の奥様のお姉さまだそうですが、見事な演奏でした。ハンドベルの演奏は何回も聞いていますが、独奏というのは初めて見せていただき驚きました。
「さながらに 鍵盤の上を舞うごとく ベル連れ動く 両腕のコンサート」
25日は「メモリアル・デー」の休日でした。地域によって違いますが、小さい国旗に白い十字架が道路の両側に並んでいます。その十字架には戦争でなくなった方の名前と、何時の戦争によるものかが書いてあります。古いものはアメリカ独立戦争のものもあります。ベトナム戦争、朝鮮戦争、第二次世界戦争、そして今の戦争、悲しい犠牲者の名前です。この旗を出している道路が今年は一段と増えたような気がしています。
5月は忠信の日本行きもあって、半分以上忠信の家で過ごしました。先週、子供たちは試験でしたので、スクールバスは登校だけ、終りは学年・クラスによって違うので、毎日ジージーが迎えに行きました。みんながお迎えに来るので玄関の車の行列は大変だったそうです。6月から夏休みに入ります。29日は卒業式でした。マイケルの卒業はもう一年先ですが、友達が卒業するから出席するとの事。どうやら全員出席をしなくても良いものらしいです。卒業生はみんな家族と一緒に来ていて大変な車の数です。ポリスカーも整理に来ていました。面白いと思ったのは、学校が狭いから(そんなに小さいとは思わないのですが)教会を借りて行うとの事。日本では考えられない、反対現象です。たしかに、この教会は広い広い教会ですが通りからは見えません。一つの山の様な、公園の様なところに在りました。きっとこの中に幼稚園から学校まであるのではないかと思われました。
今月は教会のメンバー藤田家の7歳になった勇輝君が「川崎病」で急遽入院ということがあって心配しました。一度は、一週間で退院したものの、再び熱がでて入院、今度は鼻血が出たり、赤血球が急に下がって輸血騒ぎをしたりと大変でしたが、幸い3日目からガンマーブログリンが注射されており、元気になって退院することができ、ほっとしています。
一方、オレゴン州に移ってがんばっている、高橋和子宣教師が入院、というニュースが25日飛び込んできました。翌日 スグ電話をかけてみますと背中などの痛みで病院へ行ったところ、そのまま入院検査を受けているというのです。今までの検査で肺と背骨に腫瘍が見られるというのですが、今は組織検査の結果を待っているだけだけど1日の入院費が4000ドルで自己負担分だけでも一日200ドルかかるとのことでした。一日置いて電話してみますと「もう家に帰っています」と言われました。検査結果を待つだけだからと前の日に退院していました。その結果は12時間とか24時間だとか言われましたが、なかなか分りません。はっきりしないせいもあって、和子さんも日本の「支える会」に連絡していない様子。恒義さんが委員の立石さんの息子さんに知らせていましたが、私も直接、立石さん夫妻に知らせることにしました。また「ロバの耳」の藤原さんにもメールで特別にお祈りの依頼を送りました。でも、組織検査の結果は結局、翌週火曜日、ミシガンから日本で一緒に住んでいたジャンさんが来て病院へ行って一緒に話を聞いてくれるまで分りませんでした。
私たちは月曜日1日(月)から武田夫妻と一緒にアラバマ・フロリダ州への伝道旅行に出かけました。そしてその2日目、集会から集会への移動中に「やはり、ガンであった」との報告が入ったのです。3日に集会が終わって、宿に落ち着いてから牧実と二人で電話をかけました。「声だけは元気」と言われるとおり、しっかりしているようでした。覚悟も決まったようで、前の時より落ち着いている様子。「遺言状を書いているよ。5日、金曜日に話し合いだそうだけど、もし余命が長ければ治療するし、短ければ・・・・」などと言うので、「大丈夫なの、しっかり受け止められているの?」といいますと、「何さ。天国に行くだけだもの」とこちらが叱られる有様。少し安心しました。私たちは、もしガンだったら保険のこと、お金のこと、付き添いのこと、食事のこと・・・どう考えても日本に帰るほうが良い、と意見が一致していたのですが和子さん本人はまったくその気が無いらしく、どうやって帰る気にさせるか頭を悩ませ祈っていました。ところがその時、初めて「もしかしたら日本に帰るかもしれない・・・」との言葉も聞かれほっとしました。そして昨日、午後「癌専門医」との話し合いが行われ、「転移性の腺癌」で、肺で始まったものが脊椎にも転移している。非小細胞腺癌。進行性の遅い癌だけれど、すでにステージ4になっている。右肺に3センチの腫瘍、背骨は腫瘍だらけ、頚椎5、脊椎1,9、腰椎1、小腸にも疑わしい物がある。治療法はまず骨折(ひび)のところを簡単な手術で直してから放射線治療を2週間して、キモセラピー(化学療法)。その後、薬になるとの事。余命はこのままでは6ヶ月、治療をしてもそれを6〜12ヶ月延ばせるだけとの事。これからどうするか、話し合いが続けられます。やがては誰でもが、覚悟を決めなければならないことですが落ち着いて神様の愛を信じて立ち向かえるように祈っていかなければと思っています。
まもなく父の日、ダディーは、その一週間前に「八十一歳」になります。
どうぞ皆様お元気で。神様のご祝福をお祈りいたします。
郁 子