一麦:渡辺家のHP
アトランタ発第82便
2009・9・2
皆様いかがお過ごしでしょうか。異常気象、新型インフルエンザ、そして総選挙と、めまぐるしい情報に囲まれている毎日ですが、お変わりなくお健やかにいらっしゃることを願っています。気がつけば木の葉の色も秋のけはいを見せ始めています。じりじりと焼けるような日は家の中にじっとしていましたが、少し暑さが納まった日に、アクォース(忠信家)の庭で草取りをしました。毎年、何かの草にかぶれて病院に駆け込むのですが、今年の春はそんなこともなく、定期の診察の時に、先生とそんな話もしていたのですが、今回はやはりやられてしまいました。大きな木の下にもぐりこんだのが悪かったようです。でも血糖値に気をつけながらステロイドを使用、三日でおさまり今日でお薬も終りになりました。
81号を書いたのが7月23日でしたから8月は飛ばしてしまったことになります。これは私だけでなく、6月に病名がはっきりした高橋和子さんの周りの者が、この2ヶ月、息を詰めてその期間を過ごしたためでした。不思議なことに、和子さんが三年前、アトランタからオレゴンに伝道の拠点を移したのは、オレゴンの日本人教会の牧師夫人が肺がんで、わずか2ヶ月で亡くなられた直後のことでした。時を経て、和子さんが、同じところで同じような病状になられたわけです。和子さんは8月7日朝召され10日が葬儀でした。
(今回は、五十余年来の友であった彼女にまつわることだけになりますがお許しください。)
激しい腰痛で診察を受けました。いろいろと検査をして、6月には「肺がん」が脊椎の数箇所に転移しており、あと6ヶ月の余命と告知されました。こちらでは、前にも書いたグレースのように、乳がんから骨がんになり、一時は立つこともできなくなりながら、元気になってきている例もあり、今後のことについていろいろと考えがあって、毎日連絡が飛び交いました。
和子さんとは、私が18歳で青森へ行った頃からのかかわりがありました。20歳の時から3年間は、新設の神学校「日本クリスチャンカレッジ(JCC)」で一緒に寮生活をしました。今思うと、この寮生活は私たちの人生の中でとても大きな意味を持っていたようです。何しろ、昭和30年から数年というこの時代、戦後十年といってもまだまだ人心が落ち着かず、貧しい時代でした。寮には暖房も無く、食事は「煮干のカロリー」まで摂取するように計算されたものでした。おやつには極力、野菜類をとるように勧められ、トマトやヨーグルトを食べたものです。学生の中にはキリスト教に反対の親に勘当されて来た方も何人かおられ、サポートのある人の方が珍しいくらいでした。奉仕教会まで行くためのバス代に困っていると、黙ってポストにお金が入れてあったり、銭湯に行くお金が無いという人の為には、「洗髪代」がゆずられたり、寒い夜、遅く帰ってくる人の為に「毛布を抱えて暖めて」いたり、中にはからだの弱い他人の為に、自分には必要のないアルバイトをしていた人もありました。そんな中での助け合いの一つ一つは今になっても忘れることができません。
2年生の時には校舎の一部建て替が行われ、7名ほどが少し離れた畑の中の一軒家に行かなければならなくなりました。寒い日も暑い日もありますし、食堂までも5,6分ほど歩かなければなりませんでした。からだの弱い方もあるので、抽選ではなく、率先申し出によってメンバーが決められました。その7名の中に私も牧実も和子さんも手を上げて入っていました。不便ではありましたが、その分、いくつかの特典も与えられていて、少々枠を外れた寮生活をすることもできました。ラッパを吹いてくるお豆腐やさんから「おやつ」代わりに豆腐を買ったり、アルバイトをしなくても良かった友人が漬物を作ってくれたり、あるときは(タダ一回でしたが)舎監の先生を巻き込んですき焼きパーティーをやりました。翌日食べすぎでクラスを休んだ人も出てハラハラしたことも懐かしい思い出です。今考えると、若さのせいでしょうが、実によく笑い、いろんないたずらを考え出したりしたものです。卒業後も私たちの場合、違う会社に離れていくのではなく、深いつながりの中での働きでした。2年生の時でしたか、和子さんが歯医者さんに行きたいと言い出されて、私のお世話になっている先生の所に連れて行きました。ところがその待合室で、まだ珍しかったのですが、インドネシアかパキスタンのお金持ちの青年に和子さんがどうやら見初められてしまったのです。それから学校にまで電話がかかってくる様になって私は大変心配しました。あるとき、呼び出されて出かけようとする和子さんを、私は覚えていないのですが「通せんぼ」をするようにして止めたと言うのです。「おかげで結婚できなかった」と良く冗談を言われました。それに対して私は「もしかしたら今頃、第3夫人なんかにされていたかもしれないでしょ。我が家の娘としての分を確保しておく」と答えていました。同窓生の交わりは、いろんな形で続けられ、他の学校の方々からうらやましがられていました。13年前にそんな仲間とアトランタ訪問をした和子さんが、60歳を過ぎて「宣教師になる」と言い出された時には、私たちは「支える会」を作り、みんなで応援して送り出しました。デピュテ−ションでは、教会訪問の日程を組み、九州から、北海道まで一緒に巡回したこともありました。釧路でレンタカーを借りて道東を走り回り、摩周湖などを回ったこともありました。9年前に私たちもアトランタに移住して来てからは、学校時代の続きのような生活でした。お互いに忙しくてゆっくりすることができなくても、目の端にお互いを見ることができる生活でした。共通の友人がよくおいでくださるので、そんな時はすぐに同窓会がもたれました。数年前、武田夫妻と和子さんと私の4人で、フロリダへホーク元学長夫妻をお見舞いしたことがありましたが、その時ホテルで誰が一番早く天国に行くかとか、葬儀についての希望とかを話し合ったものでした。3年前にオレゴンに引っ越されてからも、夏のファミリーバイブルキャンプには楽しんで参加して下さっていました。今年ももうすぐ、キャンプでお会いできるところだったのですが、神さまのお召しがありました。発病後の一番の問題は何とか「日本に送り返したい」ということでした。こちらでの医療費の高価さもあり、日本で安心して治療を受けてもらいたいとも思いましたし、「漬物大好き人間」の和子さんがアメリカの病院で食事ものどを通らない日が来ることは目に見えていました。そして何より、たくさんの友だちの中に帰してあげたかったのです。余命6ヶ月と宣告され、治療をしても、それはわずかに余命を延ばすだけだといわれ、「化学療法は受けない」決定をした後も、和子さん自身、まだまだの気持ちがあり、帰国の決意がはっきり告げられなかったため、痛みを止める目的で一部だけの放射線治療が始まりました。はじめは一週間と言われたものが2週間、更にはもっとかもと言われ、私たちはそれによって帰る時期を逸してしまうことを恐れました。再三、帰国を勧める私たちに対して和子さんの反発があり、「嫌われそう」と涙する方もありました。誰が、和子さんに帰国を勧める力があるのだろうか、誰かがその力で説得してくれることを望みました。やっと7月末には帰国することまでは折れ、その後、12日に教会のコンサートでお別れの挨拶をして15日に帰国することになりました。しかし、6月29日、アトランタから二人の方が、お手伝いに向かって荷物の整理を始めている一週間の間に、更にどんどん体力が落ち15日まで待てない状況に見えてきました。二人の方は和子さんが頼んでいた、同窓生がやっている老人ホームに泊まって、和子さんの負担にならないように時間を考えながら通っていましたが、後半は夜中のトイレに呼び出されることも考え、和子さんには内緒で、近くのホテルに変えて詰めていました。お二人は、和子さんの指示で、すべての持ち物を整理、分配し、不要なものを焼いて、着て帰る洋服まで決めて6日にアトランタに戻ってこられました。オレゴンで後を引き受けてくださった方からの報告が刻々と入りましたが、そのうち、自分の考えをまとめることも困難そうになってきましたので、「早い切符探しをしてみて、見つかったらそれは神様のご意思だ」と説得し、10日帰国が決まりました。アトランタから一人の方が駆けつけ、日本まで同行、送り届けることを申し出てくださっていました。すでに立つこともできなくなっており、車椅子が用意されました。かたくなに泊り込みの看病を拒んでいた和子さんですが、終りの3日ほどは教会の方が泊まってお世話してくださいました。7月5日がオレゴンの教会での最後の礼拝になりましたが、礼拝後に用意されていた「送る会」まで体力が持たず、簡単な挨拶をし、写真撮影をして帰ったそうです。幸い飛行機の中では一度起きただけで寝ていたそうで、日本の支える会が用意して下さった「寝台車」で町田の「佐藤家」に着かれました。前からホスピス探しをお願いしてありましたが、やっと面談予定が決まったところでした。しかし、すぐに危険な状態になり、近くの病院に入院となりました。その後、ホスピスの入所許可をもらいましたが、待ちきれませんでした。けれども、結果的には、病院が教会の近くでもあり、多くの方が、お訪ね下さるのに良かったかもしれません。7月31日、こちらの教会のファミリーキャンプが始まる日、「和子さんが昏睡状態に入った」と言う連絡が入りました。皆さんにはキャンプの終りまで伏せられましたが、私たちは祈りの中におりました。病院には本当に多くの方が、訪ねてくださいました。その方々からの報告が入りました。あらためて、神さまが「和子さんの為に最善の時を用意してくださった」と思っています。和子さんは、「私は一人だから・・・」とよく言っていましたが、現役で天への凱旋をさせていただいた和子さんは「花道」を用意され、幸せだったのではないかと思います。最後の電話での「じゃあねえ」という声を思い出しながら、遺された赤いブラウスに何時、手を通せるかなと考えています。天国での再会と交わりを望みつつ。
次号までお元気で。
郁 子