一麦:渡辺家のHP

突然のお知らせですが                               2009・9・8

ダディー(忠雄)が突然、天国に召されました。2001年三月、引っ越してきてすぐ心臓の手術を受けましたが、その後、心臓の異常はなく、25年あまり前からのC型肝炎が、2007年の検査で肝硬変のステージ1のレベルで認められてはおりましたが、体調には異常もなく、元気に過しておりました。

957日はアトランタ、郊外トッコアで、ノークロスバプテスト教会の修養会が行われていました。アメリカに引っ越してきてから9年目に入った私たちですが、修養会には欠かさず出席、今年は8回目でした。5日、1時間半ばかりの運転をしてカンファレンス・センターに到着、夜7時からのスモール・グループでも、楽しそうに発言していたそうです。疲れていないかと、その後のキャンプ・ファイアーを心配しましたが、進んで参加しました。頼子と圭三さんも到着。実は私の方が全身に湿疹が出てくすりを使用中でしたので、ちょっと用心して、部屋で休んでいました。

翌日、日曜日でしたが、朝食もおいしくいただけたようで、9時からのサンデー・スクールに続き、礼拝に出席しました。昼食前に記念撮影の時間があり、この写真が最後のものとなりました。午後は自由時間でしたが、ほとんどベッドで休んでおりました。私も良い事だと思い、部屋に残し、自分は、おにぎりつくりのお手伝いしたり、ゲームを楽しんだりしていました。夕食の時になって、あまり気のすすまない様子でしたが、カフェテリアに行きました。ダディーは少しの野菜と何かのフライを食べていました。7時から何人かの方がお話を聞かせてくださるあかし会がありました。前の席の方がふりむいて「先生、何か聞かせてくださいよ」とささやかれたのに対してちょっと、嬉しそうににこっとして小さく手を振ったそうです。その数分後、私に「ちょっと部屋で寝てくる」といって部屋を出て行きました。特に変わった様子は見られなかったのですが、地下の集会室から部屋までは外に出て、食堂の前を通り、ほんの10メートルほど、屋根の下になっているコンクリートの道を渡って別の建物に入るようになっていました。センターではいくつかのグループ(400人くらい入る食堂はいっぱいでした)が集まりを持っていたのですが、ダディーはこのコンクリートの道に倒れていました。倒れたところを見た人もあり、すぐに人が集まり、どのグループの者かと言う事になりましたが、中に日本人のメンバーと午後の時間、テニスを一緒にしていた方がいて、時をおかずに知らせてもらうことができました。私が、続いて頼子と圭三さんも駆けつけた時にはナビゲーター・グループに参加していた三人の医者が取り囲んで介抱しており、それを助ける日本人の声で「どこにいるか分りますか」と何回も大きな声が聞こえました。意識ははっきりしているようでした。すぐに救急車の手配がなされ、救急センターのステファン・カウンティー・センターに運ばれました。ダディーの話しでは、ちょっとふらついたので、腰掛られる所を探したところまで覚えている、と言う事でした。前に倒れた時、唇を切ったことと、鼻血が出たことで、顔中血だらけで本当にびっくりしました。しかし、病院での質問に対し、ダディーの言うのには夕食を食べ過ぎた、お腹が張る、と言う事でした。病院に着いたのは9時半頃でしたが、とても対応のすばらしい病院で、次々と処置が進められました。お腹の具合と言うので、何を食べたか、どのくらい食べたか、とたずねられましたが、お腹に来る風邪なども考えられた様です。はじめの血液検査で貧血もあると言われましたが、一番の問題は血圧が平均80/40位から上がらない事でした。そのうち、息ができない、と言い出し、酸素マスクが与えられ(チューブでは間に合わなくなり、)ました。呼吸の問題が起っているからと肺のCTスキャンがとられましたが異常なしでした。息苦しさを訴え、盛んに氷がなめたいと言い出しました。そこで、今度はお腹の中に水があるかも知れないと言う事で、もう一度、肺のレントゲンとお腹のCTもとることにしましたが、それは午前4時になった頃でした。その前のまだ比較的静かでいられた午前2時にケネソーから忠信が到着しました。「ああ、きてくれたのか」と言ったようでした。11時に電話をかけたのですが、夜中の初めての3時間もかかる道なのでGPSのありがたさを実感しました。

4時、どうにも、苦しそうに動き回るようになり、返事もできず、検査もできない状況になりましたので、人工呼吸器をつけて眠らせて検査をすることになりました。やがてお腹のスキャンの結果が出されました。お腹の中は血液でいっぱいになっていました。ちょうど、その時、大変腕の良いといわれる外科の先生もこられていて、輸血も始まり、すぐ手術も出来る状態になっていました。もし、手術をして、どこからの出血かが分ってそれを止めれば、望みはある、といわれました。しかし、血液の減り方はとても早く、到着した時、レベルは9だった赤血球が2時間で6になり、急速に失われている。輸血を3本、他に3本?も入れているけど、深刻な状況である、と言う説明を聞き、私たちは手術を受けるかどうかの決断をしなければなりませんでした。それは本当に「そんな決断はできない!」と叫びたくなるような決断でした。しかし、私は、いろいろ深く考えることはできませんでしたが、「神様の時」である様に思われました。私自身の体力が落ちていることも実感していましたし、万一、私の方が先に召される日のことを思うと、一人残す生活がかわいそうで耐えられない思いがしました。もし、今手術を受けて快復しても、現に肝硬変によって血小板は大変少なくなっています。だんだん動けなくなり、やりたいこともできない、さびしい日を迎えなければなりません。そして最期の日は必ず来るのです。そしてアメリカでの医療費の恐ろしさを忠雄もよく知っています。子供たちを苦しめたくないはずです。遂に、私は、「もう充分です」と言う決断を下しました。先生は私たちを抱きしめながら真剣に受け止めてくださいました。その後も、2回、それを確認するように看護婦さんが、じっくり話しに来てくださり、私たちの決断に迷いがない事を確かめ、励ましと慰めの言葉をかけてくれました。それが決まったのが5時になっていましたが、忠信はリンに電話をして子供たちを連れてくるようにしました。武田家にも電話をしました。不必要になったすべての管がはずされ、呼吸器だけがはずす時を待ってつけられていました。静かに呼吸しているダディーの周りで、忠信、頼子、圭三さんと私には大切な大切な時間が流れました。忠信が聖書を読もうと言って、オフィスから英語の聖書を借りてきました。私はコリント第1の15章「復活の章」を読んでもらいました。そして、一人一人、順番に祈りました。その後は、肉体のからだを持つダディと「同じ空間にいる」と言う幸いな時間でした。落ち着いて、これからするべき事について話し合うこともできました。修養会場に連絡して酒巻先生にお祈りに来ていただくこと。葬儀は武田には親戚として、参加、酒巻先生に司式をお願いすることにしました。やがて酒巻先生が到着、私たちの決断と意志をお伝えしました。すぐに会場に戻ってボートライト先生を連れて戻られました。そこへ武田二人も到着、リンと孫たちも到着です。

緊急治療室が片付けられ、ICUに移されました。呼吸器をはずすのは注入された薬が切れて少し動きが出た時でなければいけない規則があるそうで、それまでは目を離さないためにこの部屋に移されるのだそうです。11時頃だったでしょうか、少し動き出し、余計悲しくなりました。薄く目も開ける事もありました。孫たちの顔が見えたかもしれません。やっとチューブをはずして普通の軽いマスクにしてもらい、後は自然にゆっくり神さまの時を待ちました。

リンが静かに賛美歌を顔のそばで歌い続けてくれました。みんなダディーとからだのどこかに触り、さすっていました。マスクをはずしてから5分の時もあるし、5時間のこともあると聞かされました。020分、修養会場では「渡辺先生の器械をはずす決断」について知らされていましたが、すべての針が0になって、先生が死を確認されたのはその時間でした。私たちが修養会場に荷物を片付けにいった時、帰ろうとしていた方々はそれが同じ時間であったことに深い感動を覚えていらっしゃるようでした。

 

私に残された新しい「生活」をしっかり歩いていくことができますようにお祈りください。

郁子

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