一麦:渡辺家のHP

アトランタ発第91便

2010 6 11

  5月の末に91便を書きはじめたのですが、もう少しで終わるところで、コンピューターが故障してしまいました。忠信にいろいろやってもらいましたが、どうにも分からないと言うので、今度は人さがしをしました。以前、日本語のを買う時、お世話になった高橋さんの連絡は主人が一人でしていましたので、その連絡先も分からなくなっていました。どうしたものかとおもって困っていた時、思いがけずにジャスパーの恵美子さんがおいでになりました。私が日にちを忘れていたので、ちょっとびっくりしましたが、思いたって、和美さんのお宅のお庭見物に行く事にしました。和美さんも大喜びで迎えてくださり、楽しく一日をすごし、いざ、お帰りになる時になってちょっとコンピューターのはなしになり、困っている事をお話しました。すると、この近くに直してくださる方がいらっしゃるとのこと。恵美子さんのケーキ作りの先生のご主人だそうです。ところがなんと、それが知りたかった高橋さんでした。すぐ連絡をしてお願いしたのですが、今はおつとめになっていらして、シカゴに出張中、幸いラップトップでメールは使用できていますので、お待ちすることにしました。その間、私も旅行があって昨晩帰ってきました。さて書きかけのものがあるのだと思ったのですが、こちらから呼び出すことができません。主人が作ってくれてあった書式もだせないので、どうなるか分かりませんが、忠信に聞きましたら、ホームページには載せられるという事ですから、書きなおすことにしました。

 

すっかり、夏と言いたいところですが、やはり、時々寒い日もあり、プールには水がはいっているのに、まだまだ数回子供たちが泳いだくらいです。それでも、畑のトウモロコシは2メートルを越し、幾つかの実をつけていますし、トマト、茄子、インゲンなど、少しずつ穫れるようになっています。花壇も見事で、初めてラベンダーを収穫し、リンにリースを作ってもらって台所にかけました。残りのくずを小さい袋につめて車の中においています。5月には15日に楽しみにお待ちしていた美智子さんがお着きになり、10日間ご一緒しました。飛行場でお迎えして、そのまま、そこから1時間あまりのラグランジと言う町にある「聖書時代の生活」を見せる博物館にいってみました。こんなに近いのに、今まで誰にも聞いたことがありませんでした。たまたま、頼子たちが見つけてきましたので、つれていってもらったのですが、なかなかおもしろかったです。当時のその地での生活を体験する所では、お昼には少し遅かったのですが、3時からの食事体験にも加わることができました。右手で食事をしますので、手を洗ってください、と言われて席につきましたが、一つ一つ説明を聞きながら面白い食事をしました。ちょうど、その日は、ノークロス教会の15周年の記念パーティーのある日でしたので、急いでかけつけました。パーティーの食事時間には間に合う予定でしたが、渋滞がひどく、着いたのは終わる予定の7時でした。しかし、まだ全員会場にいらっしゃって、お祝いのご挨拶をすることができました。夕食は8時過ぎに圭三さんとも待ち合わせて、中国の寄せ鍋の店にいきました。その晩は頼子のところに泊まって、翌日はウェストミンスターの礼拝に出席し、午後の婦人会では美智子さんのお証しをききました。次の日はアトランタの観光で、私も久しぶりにストーンマウンテンにケーブルカーでのぼりました。火曜日は朝早くに出発。アラバマの安江さんのお世話で、はるえさんのお宅での集会にいきました。久しぶりにアラバマの方々とお目にかかることが出来、うれしかったです。安江さんとは主人の日本での告別式に来ていただいた時以来で、ついつい、葬儀の続きの様な気分で二人とも涙におそわれました。また主人と一緒に行った「学びの日」以来だった秀子さんは、「元気そうな姿で、本当によかった」とくりかえされ、皆様のお気持ちをうれしく思いました。計画では、そのまま、7時間くらいのシャーロットまでいくつもりでしたが、アトランタを通る形になりますし、シャーロットでお訪ねする小鹿野さんから3時過ぎに着く様に言われましたので、いったん家に帰って、翌日出直しました。

私は初めてお目にかかりましたが、日本語学校の校長先生として新しく日本から赴任してこられた日本の坂戸教会の方です。最近の日本とアメリカのごたごた問題(沖縄?)のしわ寄せでしょうか、いままで、文科省にスムーズに出ていたビザが「理由もなく一方的に」ストップされて、今回43人の先生方はとりあえず3ヶ月、と言う事で着任されているそうで、お困りになっていらっしゃいます。翌日は日本語学校の事務所と、ビリーグラハムの図書館を見物してから、チャールストンにまわりました。前の日にいつもの集会があったところでしたが、良子さんご夫妻にお目にかかりたく、お約束していたのですが、君子さん、弘子さんも加わってくださり、楽しい夕食後はチャールストンの古い趣きある町並みを観光させてくださいました。夜、美智子さんは君子さんの家にとめていただき、私は久しぶりに良子さんとおしゃべりを楽しむことが出来ました。翌日、またまたお昼を頂きながらのおしゃべりをたのしみましたが、ビューフォートでは竜子さんが待っていてくださいます。7月末のキャンプでの再会を楽しみにお別れしました。ここからは大西洋の沿岸を南にくだります。

前回主人と来た時は大分迷ったので、ちょっと心配でしたが、今度は問題なく着くことができました。電話では時々お話をしていますが、久しぶりに竜子さんにお会いできて感謝しました。ご主人のお母様がつい先だって亡くなられて、今、遠く離れて一人住まいのお父様を案じられながらの毎日をお過ごしです。アメリカ社会での老人の生活について、いろいろ、教えられたり、考えさせられたりしています。

翌日土曜日は集会の日です。この前はご一緒した「藤」さんが亡くなられて、主人と二人の顔が見られない事を寂しく思いました。集会のあとは、海辺の「穫れたて料理の店?」にみんなでのりこみ、「こんなに沢山食べられない 」などと言いながら見事に平らげ、お互いにあきれながら記念写真におさまりました。次の日は日曜日、アメリカの新兵さんを教育する学校もある施設の中にある教会に出席してからアトランタに帰りました。竜子さんのご主人は、もとパイロットで隊長さんです。お家の中でも、キチンと崩さないお姿には教えられる所がありました。

さて、25日は美智子さんをお送りしましたが、この週は大忙しでした。飛行場からまっすぐ和美さんのお宅に伺い、「日本の家族を探していらっしゃる方」を手伝う話を相談しました。これは現在もいろいろの返事待ちをしています。

26日は智加ちゃんの勉強日でしたが、これは「風邪」でキャンセルになりました。ところが夜、マイケルの卒業前のジャズグループの最後のコンサートとパーティーがあり、デザートを何か持っていかなければならない、と言う事でチーズケーキを焼いたのですが、すこし、頭がボーとしていて入れるべきものを入れ忘れて焼いてしまったので、もういちど、買い物からやり直して、おおわらわでした。ついに私は「疲れた」と言う事でコンサートは行かないで留守番をすることにしました。

そして、次の27日、陽子さんのお宅でツアー前の最後の打ち合わせです。結局、いろんな方が加わって14名になりました。3台の車で朝9時集合と決まりました。

 次の日、28日は忠信の51歳の誕生日ですが、マイケルの卒業式です。朝6時、インディアナ州からリンのお母さんと、妹のダイアナが子どものエディーをつれて到着しました。卒業式は夜8時から4000人もはいれる大きな教会を借りて行われます。実はその日、ウェストミンスター教会では会堂が出来て5年目の記念講演のため、日本からお客様が到着されました。私の生まれた東京谷中の、それもごく近くのお寺の次男で、しばらくはお坊さんもしていたのですが今は牧師になっている、という変わった経歴の方です。それで、私も4時に出発ですから、3時までには帰ることにして、11時からの集会に参加、お昼をご一緒しました。(一晩中運転していたダイアナたちは休んでいるだけですから)さて、夕食は、頼子も加わってレストランでお祝いの食事でした。でも、当のマイケルは準備のため、自分で運転して早くに会場にいっていましたので、お祝いの席にはいませんでした。高校の卒業式をこんなに大騒ぎをして喜ぶ事は日本では考えられないと思いますが、どの家族も大勢が参加、卒業する一人一人が登場すると大変な騒ぎでした。式が終わってからそれぞれにガウン姿のままで「写真撮影」のひと時をもっておわりました。翌日、1メートルもあるピザをやくお店でブランチをすませて、お母さんとダイアナは帰っていきました。エディーだけは一週間のこって、次の週末忠信が途中のテネシーまで送っていき、迎えにくるダイアナに引き渡すことになりました。あいにく涼しい日が続いていましたが、それでも、毎日プールで遊んででいました。いよいよ私のツアーも近づき、具体的な旅行の準備も始めようとしていた所で、思いがけない事がおこりました。日本語の説明を聞けると楽しみにしていたのですが、杉田先生からの連絡で、グループのリーダーの方のご主人が事故で亡くなられて計画が中止になったと言うのです。一瞬、ことばがありませんでした。あれほど、みんなを喜ばせて、今度は何と言えば良いかと考えたのです。「一日」は誰にも言わないで祈ることにしました。そして、私が「予備知識としても説明文」をつくることにしました。コンピューターが故障しているので、手書きになります。それでも私の勉強した範囲では天文学に関する「プラネタリウム」の説明はできません。「そこだけでも、お願い」できないだろうか、と昌美さんに相談のメールをおくりますと、思いがけず、そう言う機械を作ろうとしている文子さんと言う方がいるけど、機械はまだ未完成だと思うとお返事がありました。すぐ、メールを送って「未完成でも良いから何とか」と無理に頼んでお借りすることになりました。これで、皆さんに何とかお話ができる、とほっとしたのですが、実際には、もっと素晴らしい準備が神様によってされていました。到着した日、昌美さんが全員を夕食に招待してくださっていましたので、行ってみますと、文子さんご夫妻の他にもう一人、この博物館の設計者の奥様が日本人で、このご夫妻も招かれていました。この奥様のさかえさんはお寺の娘さんで一時は得度されお勤めもされていたそうですが、その後アメリカでクリスチャンになり、バプテストの神学校も卒業している方です。その他にここの教会の牧師先生のご家族も招かれていて30人近くのパーティーでした。素晴らしいおもてなしを頂き、帰りたくない、と言い出す人も出る中で、明日の事を考え、最後にマイケルに3曲(結局はアンコールで4曲)トランペットの演奏をしてもらってしめくくりとしました。

翌日は機械を使ってプラネタリウミムを見て、もう一つ分かり易い映画を見てお昼を食べている所に「3人の日本人」の方々が到着、その後は小グループで心ゆくばかりに説明をしていただきました。10時から6時まで時間いっぱい楽しんで、夕食は昌美さんとお母様、文子さん、そしてもう一人のお友達も加わって日本食のレストランでにぎやかに会食。お名残惜しい思いを残して、またいつか、またはアトランタでと言いながらお別れしてきました。翌日の帰り道も順調で一同大満足で帰っていただき、私としても本当に良かったと感謝しています。今回の旅にマイケルが参加してくれた事はとてもうれしいことでした。おとなしい子ですが、物怖じすることもなく、もちろん英語の心配もなく、しっかり見学していました。アメリカ人のおじさんたち、日本人のおばさんたちにとっても、うれしい参加者でありました。

今回のツアーに参加した方々の中にこれからの勉強会に参加したいと言う方々もあり、これからの広がりがたのしみです。

これから畑の水やりです。この次の92便を出すまでには、コンピューターもなおっていることでしょう。どうぞ、皆様、良い夏をお迎えください。神様のお守りとご祝福をいのりつつ。            

郁子

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